攻められ気分
職場や上司との噛み合わせに対し、具合の悪さばかり気にしてしまうようなここ数日間ではあった。接触が多かったせいというのはある。言ってしまえば変に身構える機会やおびえる機会が多かった。緊急事態が続いていたが、その中で、「君のチェックが甘かったせいだ」と遠回しに攻められていたせい、または、「君のチェックが甘かったせいだぞ」と勝手に攻められているような気持ちになりすぎていたせい、といえる気もする。過敏な反応による幻肢痛的ダメージもまああった。それはそれとして、端的な不機嫌さによってダメージを喰らったところもあったとは思う。
いずれにしても、意識が"攻められ"のほうにばっかり向いてしまっているのは――絡めとられているのは、たぶんよくないんだろう、とは考えた。少なくとも楽しくはない。効率性や生産性だってよくないと感じる。まあ効率性とか生産性とか言い出すような話の世界観のほうがよっぽどよくない気もするが。とはいえ、(比較せずとも)よくないものはよくないものとして、ダメっぽいところはダメっぽいものとして、いったんは見つめておきたい。
シンプルな視座がちょっと得られた
職場環境や上司の性格・人格の話は自分でも飽きてきた気はするものの、言葉にすることによる整理のしやすさはやっぱりあって、結果、気持ちも落ち着くし、まなざしだって拡がってくれる。だからどうしても言葉にしたくなるところはあるかな。嫌な記憶としてこびりついているからどうしても目を向けさせられてしまうというところもなくはないけれど。そんなこんなで複数回ことばにしてみたところでいまだに混乱が落ち着かないって問題ももちろんあるけれど。なんにせよ、距離を取るのはまだまだ難しそうである。
とにかくシンプルに考えればよいんじゃないか、っていう気分には、最近けっこうなってきた。「なんでこのひとはまわりに優しくしないんだろう」という、シンプルな疑問を胸に抱きながら話してみたら、むしろ落ち着いた気持ちで対話できる場面もあった。しないひとなんだからしないひとなんだ、というあっさりした認識が、適度な間合いを導いてくれたというか。よい意味での諦めを呼び覚ましてくれたというか。別に「諦め」をもってよしとしたい、気休めとしたい、ってわけでもないのだけど。振る舞いの基準を定めるためのいったんの足場としてはちょうどよかった。