世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年11月1日(土)量を増やして別のスキルツリーへ

書くだけいろいろ書いている

文章を書く量をためしにいろいろ増やしてみたら、いままで使いこなしたかったのにうまく頭から持ち出せていなかった単語、なかなか望んだとおりには脳裏に浮かび上がってきてくれなかった表現が、わりと都合よくというか、自分的に心地のよい頻度で、湧き出てきてくれるようになった気がしている。お、これ使えてるじゃん、ってちょくちょく感じる。

同じ表現にはいずれ飽きてくるため、無意識に、手垢のついた言い回しを避け始め、結果として、そのうちに、奥のほうにあった言い回しを出してこれる感じになったんじゃないかな、って解釈してみてはいるのだけど、ほんとうにそうか?とも思わなくはない。そんな単純な構造でいいんだろうかとも思う。しかし、基本として、自分に都合のよい事態にはなっているため、そこを深掘りする熱意はあんまり湧いてこない。

まあでも、もっとほかの経路や段階も、関連していそうな気はするのだった。たくさんの言葉を吐き出すことで、ことばに関する使い方や、手触り、世界観などを、すこしだけ書き換えられたかのような、そんな精神面の変動もあるんじゃないかという気はしているのだけど、しっかりは解析しきれていない感じだ。なんというか、これまで使っていなかった奥の棚から、わざわざ取り出してきているにしては、自然体で使えすぎな気もする。

イメージだけでいうなら、量を増やしたことで、いままでとは異なる種類のスキルポイントが獲得できていて、異なるスキルレベルやスキルツリーを上げられるようになり、長らくレベル不足で(ずっと身近にあったのに)宝の持ち腐れだったことばを、ちゃんとあつかえるようになった、くらいの解釈のほうが、スッキリする気もする。

2025年10月31日(金)予備知識シミュレーションのアラ

よっぱらい

飲み会の終わり。電車に揺られながら書いている。電車の中で素早くフリックしていると、邪魔とまではいかなくとも、目に余る印象はあって、なんとなく遠慮させられることも多い。別に人の意識に引っかかりたくはない。邪険にされたくもない。が、いまは酔っているので、「気になり度」が低めだ。視界の縁のあたりを無意識のうちに遮断気味にしている。視野狭窄を許すどころか積極的に採用してみせようとする気概すらある。悪戯心なだけな気もするけど。

なんにせよ明確に酔っている。この種の精神状態・身体状態で叙述を続けると、論理の距離感を見誤りやすくなる印象だ。空白を見過ごしやすい。つまり翌日読んだときにアラが目立つ。ここの説明とここの説明、どうやってつながってたの?というダメージを喰らう。いま、がんばって、飛躍や破綻のないよう、意識して、ことばを繋げているつもりだけど、うまくできているか、実は判定できない。少なくともいまは感覚があてにならない。なんというか、読み手の想定時、予備知識がある人間の意識と、予備知識を持たない人間の意識を、区別してシミュレートできなくなる。

2025年10月30日(木)広く静かな空間を保って、広がってもらう

ざわめくと広がらない

深い呼吸をくりかえして、落ち着いた水面のような精神状態を作り上げないと、なんも連鎖してくれなくなるなあ、とは感じた。ざわついていると、やはり、それに気を取られるだけで終わる。静謐に満ちた大きなホールを用意すれば、わずかな音色も響き渡っていってくれるように、意味を広げるにも静けさと空間が必要になるような印象だ。明るく前向きな精神を混ぜられるならなおよい。揺らぎのない水面に水彩絵の具を一滴垂らしてみるイメージでもいい。広々とした空間だからこそ元気に育っていってくれる樹木の枝葉や根っこのイメージも悪くない。

2025年10月29日(水)しずかでやわらかくてシビアでも淡々

淡々と平凡

エッセイに、斜に構えた意地悪な目線が一定必要なのはなんとなくわかるけど、それにしたって、ひねくれと、そして、オチのための弁明みたいな自虐ばっかり目立つんじゃないか、みたいなことを思う機会があって、あらためて自分の好きなエッセイのたぐいを見直していたら、淡々とした筆致が多かった。しずかでやわらかく、でも、なんとなくシビアな感じ。

とはいえ、ほんとうになんでもなさそうな、ありきたりで陳腐なことばもまた、「淡々としたもの」には見えそうな印象があるから、どこで線を引けるんだろう、とも考えてみたくはなった。しょーもないごくごくフツーの見解と、淡々としているがなんだかいい感じの見解の、差異は、まあ(後者が好きなぶん、なおさら)気になる。魂が(感情が)こもっていると感じられるかみたいな主観的で恣意的なところもたぶんあったりはするんだろうけど。

ぼくの認知にとって聞き飽きた(馴染みすぎた)意見か、新鮮な見解か、っていうところで、ぼくなりに腑分けしてしまっているところは、まあそりゃあるんだろうな、とは思いつつ。

2025年10月28日(火)つながらない言葉もぽんぽんつなげていた

ロジックをすげえ直された

ほんとうは繋がらない、とまではいかないにせよ、繋がりにくそうな「ことば」と「ことば」を、じゃっかんねじ込むようにして、繋げてみせる。そういうお試しによってようやく見えてくる地平もときにはあるのかなと思う。そこにお人好しな解釈を差しはさんでみせるなら、こういった見方だって(言い訳だって)できるに違いない、というような、無理やりな理屈づけこそが、見せてくれる世界像が、きっとある、とは感じる。もともとそういうものが好きだったし、無意識に愛用もしていた。

けど、そういった論理の噛み合わせを軽視してしまうような、甘さといえば甘さを、軽薄さといえば軽薄さを、改善するよう、邪魔され続けたここ数年だった。直しましょうと指示することばの切っ先が丹念に突きつけられていて、なんとなく、素直に、したがってしまっていた。直さなきゃとすぐに感じるタイプの精神と動機が醸成されてしまった。別にいらんかったなあとまでは思っていないが、無頓着にそちらに染まっていくことに、もっと抵抗はしてもよかった。ヘンなつながりを、ヘンなリズムを、手放すべきじゃなかった。

まあたぶん、まだぜんぜん好きは好きで、決してなくしてしまったわけでもないとは思うのだけど、とりあえず、再度、意識はし直しておきたい。優先すべきときには優先できるよう、スタンスを整えたい。

2025年10月27日(月)むりやり世界のいろいろを食んでもらう

刺激で駆動させる

意識的に、あたまに刺激を与え、無理やりなにかを見聞きさせて、別のなにかを連想させようとする。別の見立てを探させる。関連していそうなイメージを掘り下げさせてみせる。なかば強引に「解釈」させようと働きかける。そうこうしているうちに、なにかを見て、なにかを思うことの回転速度が上がっていく。連鎖もしはじめる。止まらない勢いさえ感じさせられる。

エンジンへの加熱がコントロールできているかのような経験則が、なくはない。かならずしもうまくいくとは限らないが、試そうとしてみるのも悪くない、決して無駄じゃない、といった認識も根強くなってきている。寝不足だから完全に思考停止していてどうにもならない、不機嫌だからもうどうにもならない、みたいな「振り回され」(=すべて、脳みそ側の気まぐれで、理性側としては、ただ静観しているしかない、といった事態)ばっかりでもないようだ、とは思うようになった。どうにか対処は可能、って認識には、いつの間にか到達している

でも、たまたまこれまでうまくそうやってこれた、っていうだけで、まるっきり誤解である可能性もまた、なくはない。それを考えると多少は怖い。元気や活力みたいなものが、いまは必要量に達していて、実現させる動作が可能だっただけ、って状況は、ふつうにありうるかなと思う。若かったときはふつうにそれができていたけれど、中年・老年になっていったら、もうそのためのエネルギーなんて枯渇状態、みたいな事態もとうぜんあるはずで、「どうにかできるもんだ」という楽観も、けっこうあやういものではありそう。

イメージを拾い始める

エンジンがちゃんと動き始めるのに時間がかかった。脈動し始めてくれたのを感じる。なにかを見たり聞いたりきたときに、イメージ化が始まってくれる。イメージが固まってくれる。そうして、その作り上げたイメージを呼び水にして、ことばが、そして理解が、新たに拾い上げられていく。頭脳が活発なときの挙動ってそんなイメージだ(というイメージもようやく拾えた気がする)。