ダークゾーンを照らし出す理屈
職場にまつわる不満はあいかわらず滞っている。上下の波は激しく、消えたことはない。ことばで描き出そうとするたびに感じるが、ゆらめく怨念めいた気持ちの全体像を、明瞭に描き出すのって、ほんとうに難しい。なにかの陰になっていていまだに照らし出せていないところ、一般的な理屈で"代替"して記述してはいるものの実はピンときていないところ、などがある。
ただ、ときどき、暖かくて優しげで的確なことばが、幸運にも、該当エリアまで落ちていってくれることがあって、そんなときには、波紋のような光によって、一瞬だけ、隠れていた思いが見通せたりもする。「そうか、こんな理屈が世の中にあるのなら、自分が感じていたことは、こんなふうに言語化が可能なのでは」、と着想できたりする。
そういう、いまの自分の胸中を運よく照らし出してくれたことば、当てはまってくれたことば、を、記録しておくのもよいなとは思った。時間がたったときに、見失っていることも多い。もったいない。
最近、メモする先を思いの種類によって仕分けたのもあって、「職場に対する不満の見通しをよくしてくれた」ことばの振り分け先も、別途、定めてみてよいんじゃなかろうか、と思った。聞こえのよい(都合のよい)目先の理屈に振り回されそうな気配も正直めちゃくちゃあるが。
論理の距離に過不足ある
昔の自分の日記を読み返して、不快感を発見し、その不快の理由を分析しようとする振る舞いが、謎にぼくの中で流行っている。これも数日前に書いたことだけど、「いまもやってしまっていそうで怖い」ため、「昔の日記になぜそれを感じるか」を見出し、「原因」を明らかにすることによって、「いまはやらずに済んでいる」のだ、と納得したいんだと思う。見つけ出した「原因」をもとに、いまの文章を精査したい。もしくは、発覚した「原因」によって、いまもまだ「やらかして」しまっているのが明らかになったなら、流石に、今後は、その「原因」を正していくことができるだろう、と期待しているんだと思う。
昔の日記・文章を、いまの自分が見直していると、とりあえず、文と文の距離、論理の距離感、みたいなものが、ヘンだ、と思えるところはあった。短すぎて異様にくどくも見える。ときには長すぎて(つながっていると見做せなくて)、飛躍、または断絶や破綻にすら見えた。華麗にジャンプしてみせたような顔つきしているけれど、ぜんぜん手前に落ちているようですけども……、みたいな違和感もあった。総体として、もうちょっと親切に説明してほしいんだけど、とは愚痴りたくなった。
ただ、理屈を説明するときの距離感って、趣味の違いという面もあるというか、どちらかが間違いでどちらかが正しいという話ではないんじゃないか、とも思う。文と文の、飛躍や省略、または、丁寧で精緻なつながり、って、結局は好みの問題に帰結する範囲もあるんじゃなかろうか。と考えた場合、一時的な(今の)目線で、都合よく是非を分けるのも、なんとなく違う気はする。「そうはいっても、一般的な文章指南レベルでいって、説明足りてなかったでしょ」というツッコミの対象範囲内な気も、また、しなくはなかったけれど。