世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年01月24日(金)気軽に有名人の名前を出してくる

軸になる知識人はけっこう近似

知識人、作家、哲学者、思想家なんかの名前や、かれらの考案した言葉・概念・視座が、特にアカデミックな要素のからんでくる領域の話だと、ぽんぽん混ぜこまれてくるのだけど、どうやったらついていけるようになるのか、どうやったら憶えられるのか、学生時代、だいぶ不安だった。真似できる気がしなかった。果てしなさを感じていた。

が、関連書籍などを読んでいれば有名どころは意外と頭に残るもんだよ、というのが、いったんの結論にはなったかな。アリストテレスとかピタゴラスとかデカルトとかユングとかマルクスとかハイデガーとか吉本隆明とか、「影響範囲がデカい」人については、やっぱり、一定、偏在した形であつかわれているところがあって、なんだかんだ、いろいろな場所で見かける羽目になる。ちょくちょく絡む機会がある。結果として、意外に、印象に残る。「あ、またこのひとが出てくるんだ」ってなる。

というほど、ちゃんと記憶できているかはわからないし、うろ覚えも数え切れないくらいあると思うし、入門書レベルの粒度低めの把握ではあるのだが、しかし、前置きなく名を挙げられて、「誰?」「何者?」といった心理的抵抗を覚えることは、さすがになくなった。身構えずに済むようにはなった。むろん固定観念の根床になりかねないとも思ってはいて、良し悪しあるとも思うのだけど(活かしかた次第でもあるんだろうけど)、ともあれ、「なんで皆そんないろいろな人の名前を出してこれるの?」と不安を覚えていたころの自分に対しては、あんま気にしなくいいんじゃない?って言ってあげたくはなるのであった。

2025年01月23日(木)気持ちのよいタイムライン搾取

居心地のよい世界が続けばよいと、ROMみたいに

MastodonのタイムラインもBlueskyのタイムラインも、最近のXのそれと比べれば、間違いなく居心地がよい。読みたいひとたちのことばが読みたいくらいの分量で、ほどよく並んでくれている。快い世界が顕現されている。こういう空気がずっと続けばいい、って考えながら、そのうちに、うーん、みずからがまったく参加せず、ただぼんやりそれを望んでいるのって、だいぶズルいんじゃない?って思った。

「みんなのこういった振る舞いがぼくにとって素敵な世界を形作ってくれていますよ~」「今後もずっとそうあってくださいね~」と言いながら、しかし、同じ種類の振る舞いをみずからは実践することなく、ただ、「みんなはそれを続けていってくれ」と、ひとごとみたいに言い続けるのって、無責任すぎ、自分本位すぎ、サボりすぎ、なんじゃなかろうか。ぼくにとっての素敵な世界は、誰かにとっての素敵な世界であるかもしれず、にもかかわらず、ぼくだけが、ROMみたいに振る舞って、搾取するみたいに享受し続けるのは、なんか違うだろ、って思った。

毎日みんなが、ちゃんと、ちょっとずつ、掃除・片づけ・整理してくれている中、「なんて居心地のいい空間なんだ」「このままこの状態が続いてくれりゃいい」なんて、偉そうにのたまっているくらいなら、さっさとオマエも手伝え、と思った次第だ。

おすすめ欄

少し前、Xの「おすすめ」欄が、なぜかすごくよい働きをしてくれていて、お!マジで素敵なつぶやき集めてきてくれるじゃん!と歓んでいたのだけど、最近また、下品で下世話なやつばかりになってきていて、やっぱりダメなんかーい、って思う羽目になった。ちょっとほだされそうになっていた。あぶないあぶない。ってことも別になく、サービスなんて、自分の都合に適していればそれでよいのかもしれないが、まあでも、残念な気持ちにはなった。

2025年01月22日(水)盾の勇者

盾の勇者の成り上がり

コミカライズ版をひさしぶりに読んだ。やっぱり、たいへんおもしろかった。少し前に「文章が下手」みたいな話題の中で原作小説が採りあげられていて、言われてみればたしかにそんなところはあるかも、と思うところもあったのだけど、ともあれ、文章の巧拙なんて関係なくおもしろかったのは思い出した。アニメ版2期の改編がひどくて叩かれていたのも見かけたが、今回読んだところのおもしろさがスポイルされているなら、そりゃ残念だ、とも思った。

デジタルゲーム的な要素が強い「勇者システム」がそれぞれ異なる性質をもって同じ世界に混在しているのが、まず、とても楽しい。体系や機構の異なる特殊能力や異能がぶつかりあう光景はそもそも好きだし、それを、こんなふうに、複数個、絡ませてくるのも、すごい。けっこう稀有な物語力なんじゃないかと思っている。そして、WEB小説版から、書籍版・コミカライズ版に向けて加えられた要素が大きすぎて、そこも、ほんとうに意味がわからない。WEB小説版だけであんな長篇だったのに、そこに、完全な新要素を加えてくるの、やりすぎていて意味不明だ。勢力一個増やすか普通?とは思った。オチに向けて下準備を手厚くしておこうみたいなノリなのかもしれないが。

bookmeter.com

頭に合っている

よく使ってしまう単語は、ぼくの世界観に適しているか、ぼくの認識構造に合っているんだろう、とは思った。世界がいくら本来的にはフラットだったとしても、ぼくの頭は、ぼくの経験によって、一定、ゆがんできたはずで、そういった特定の構造の中でこそ(ぼくの頭の中でこそ)共鳴しやすい言葉があるってことなんだと思う。って思えたら気持ちよいし、素敵なのだけど、ぼくが慣れ親しんでいる単語が、かならずしも、ぼくの頭に合ったものだとは限らない可能性もあって、逆にそれは怖い。

予防線を張るのではなく

言い逃れようとしている、とまではいわなくとも、言い訳がましい感じ、取り繕っている感じ、煮え切らない感じ、辻褄合わせしている感じ、みたいな「なんかごちゃごちゃ言ってる」的な話しっぷりになってしまっていると、文章としては、基本、つまらないものになってしまうんだろう、という予感はある。少なくとも、そうなりやすい気はしている。

ありきたりで独善的で頭の固い解釈を押しつけられるのは、困るし、まったく好きじゃないため、そういった誤解を避けるべく、とにかく丁寧に、できるだけ先回りして、ときには性急すぎる勢いで、言い訳めいた言葉で防波堤を築いて、予防線を張ろうとしてしまうことがあるわけだけど、ここの調整がきわめて難しいな、とも思う。

見苦しくならないようにするのが(必死に言いつくろって誤魔化しているみたいにならないようにするのが)、まず、とても、難しい。決してその場しのぎの言い訳ではなく、読者にちゃんと読んでもらうために必要な前置きなんだと、これこそここに置かれるべき言葉なんだと、感じさせる調整が、難題だ。そんな調整が(スマートで素敵な人間だと思ってもらおうみたいな都合のよい調整が)可能だと思うことすら傲慢なのでは?みたいな話も混ざってきそうだし。

とはいえ、「なら気にせず、野放図に、無責任に、ただ言い切ってしまえばよい」と投げ出したいわけでもない。それはそれとして、それを見苦しいものにしているであろう(言い訳っぽさの元凶であろう)ぶよぶよとしたところを洗練させて、「必要な前置き」だと思わせる手腕も、なかなか難儀なものっぽいし。

2025年01月21日(火)頻出単語のほうに、世界の重心をかたよらせている

星の数ほどあっても一部

星の数ほど言葉があるのに、「またこの言い回し使っちゃってるよ」とはよく気づく。すぐ頼る思考経路がある。すぐ寄りかかる思考空間がある。シンプルに使いすぎている単語がある。トンカチを手にしたことによって、この世のすべてが「叩かれるべきもの」に見えてくるような塩梅で、「ぼくにとっての頻出単語」によって、世界がゆがんで見えているところはあるんだろうなとは思った。

「右往左往」とか「紋切り型」とか「素敵」なんかが、たとえばぼくが自認する頻出単語なのだけど、ちゃんと世界をフラットに眺めるのであれば、「右往左往」「紋切り型」「素敵」なんて概念ばっかりが、そんなかたよった割合で、そこらに転がっているわけもないのだ。ほかの概念だっていくらでもごろごろしている。にもかかわらず、実際は、あっさり見出している。そういうものばかりが見えてきている。ただ、ぼくがそういったほうばかり見つめてしまっているんだろう。

賛否両論

賛否両論、意見が分かれているような光景のを眺めて、ほくそ笑んだ。たぶんぼくは「賛」のほうに入れるだろう、という謎の楽観があるのがわかった。

「根が明るいというのは、なぜだか根本的に自分自身で満ち足りている、ただ存在しているだけで満ち足りているってことで、根が暗いっていうのはその逆で、なにか意味があることをしたり、ほかの誰かに認めてもらわなければ満たされないこと」っていう『子どものための哲学対話』(永井均)のエピソードが好きなのだけど、賛否両論分かれている光景を見つめて、「ぼくはたぶん賛側だよね」って思えるのも、同じようなもんか、というか、たいがいだな、とは思った。

2025年01月20日(月)文章の格(勝手な信仰)

おにぎり言葉

おにぎりみたいに思いつきワンアイデアをぎゅっと握りしめ、食べやすい大きさにまとめる、みたいな言葉の働かせかたって、それはそれで、そこに適した手法やコツがあるな、って感じた。温かみのあるひとまとまりを形作るための独自の慣習がある。おにぎりの具みたいに「具体性」をひとつ混ぜこんでみせるのもそのひとつかな。

文章信仰

箇条書きよりも直線的な文章のほうが格が高いんじゃないか。しかも、一文よりは一段落のまとまりのほうが品格が高いに違いない。みたいな、信念や信仰が、無意識のうちにあって、それが、文章を書くとき、邪魔になっている気はする。論理や因果が好き、ってことでもあるのだとは思うのだけど。

感覚・感情の比喩探し

感覚や感情をことばであらわそうとしたときに、適切な比喩を探そうとする感じにはなるわけだけど、そこの比喩の模索にあんまり必死にはなれていないな、って感じた。手を抜きがちだ。逆に、見て取った構造や、考えていくプロセス、思ったことに対して、たとえ話を考えるのは、比較すれば、頑張ろうという気概がなくもない。好き嫌いと、慣れ不慣れと、得意不得意が入り交じっているんだとは思うけど、いずれにせよ、同じくらい頑張ってみていいんだよ、とは思った。

感覚や感情に関しては、慣用句や紋切り型の言い回しを避け、特別さや独自さ、一回性を崩さぬよう、丁寧に、適切なことばを探していかないと、いつの間にか意味が失われてしまうのだ、くらいの印象もあって、おそるおそる触れてみるのがよいんだろうとは思っているのだが、しかしそれが、あまりにも面倒で、手を出さないようにしているフシもなくはない。及び腰になって0点のままにするくらいなら、おそるおそるでいいから失敗前提でやってみて、1点だけでも獲っておいたほうがよいよ(そもそも最初っから上手くできるひとなんていないのだし、最初っから成功する前提なんてむしろ傲慢じゃん)みたいな話もあって、まあそれもそうか、とも思う。練習なり試行なりを避けて自尊心めいた虚栄心を維持しようとしているのも、けっこうアレだし(ほんと常にアレだ)。

感覚・感情の比喩の正誤判定

書いているうちに思ったのだけど、構造とか経路とかに関する"たとえ話"って、多少は、正解というか、妥当性みたいなものが、いちおうは、あるのだよな。ある程度は正誤判定ができる。でも、おそらく、感覚や感情に正解はない。適合しているかどうか、みずからのフィーリングに、丁寧・慎重・真摯に尋ねていくしかない。カレーみたいな憤りとか、徹頭徹尾きびしいキツネのような気持ちとか、まるで扇風機を梳かすみたいな音だったとか、よくわからなそうなことばが書かれていたとしても、「間違ってる」とは言い切れない。

誰にも理解されることはないかもしれず、しかしそれでも、そう書くしかない、それくらいのところまでにしか(少なくとも今の自分には)手が届かない、ということだって、もちろんありうる。それが怖いのかな、とは思った。「合っているも間違っているもない世界なんて怖すぎて、手を出したくないよ~」的な、及び腰の話は、ないとは言いきれない。こんなもんいまさらという気もしてきたが。

2025年01月19日(日)よくわからない二人組は楽しい

思い浮かんだ人生は残したい

一日の出来事を「日記」としてことばで写し取るにあたって、脳内に思い浮かべられていること(いまのぼくが認識できている世界)は、「思考によってリーチできている」「認識の手が届いている」という事実だけで、すでに決定的な意味があり、だから、それを、できる限り、拾い上げておきたい(逆に言うと、思いつけていることを、取捨選択し、文章としての読みやすさやおもしろさを高めていく、ってやりかたは、あんまり好きじゃない……)とか思っているところが、やっぱり、少し、ありそうかな、って感じた。「見えている」だけで、よくも悪くも、価値を認め、残そうとしすぎてしまっている。

このあたりの、自分の趣味嗜好、あるいは、こだわり・とらわれが、文章としてのよさ(みたいなもの)を下げているのではないか、という疑いは、多少ある。かならずしも置かれるべきでない言葉が、無数に混入してきていそうな気配は、なくもない。贅肉は多そうというか。ただ、「いま書いている文章のよさ」と、「残されるべき人生の言葉」の、いずれに重きが置かれるべきなのか、という問いの正解も、また、ないんだろう。都度都度決められるべきなんだとは思う。おのおのが定めるべき問題ではあるんだとも思う。

ラフ&ビズ

人事業務に関する知識を集めてみている最近だ。情報収集のなかで、凄いな、と感じられた人が何人かはいて、そのうちのひとりが、坂井風太氏になるかな、とは思った。論文を読み解いて、理論を並び替え、トークとしてまとめて、こんなふうに人に説いてみせられるひとがいるんだな、と驚いた。お笑い芸人、春とヒコーキのぐんぴぃ氏とビジネスラジオを始めていたので、めちゃくちゃ楽しく聴いた。

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