世界は称賛に値する

日記を書きます

2026年07月02日(木)嫌いなものの話もしたい

嫌いだと言いたいわけではなく

嫌いなものの話は、たとえば炎上リスクみたいなものもあって、避けがちだ。炎上するしないって問題じゃなくとも、単に相手を気落ちさせるかもしれないし、あるいは、むやみやたらと怒らせるかもしれなくて、そういった事態は、たしかにあんまり望んでいない。見下しや勘違いが混じっていたらあやういから適切に書かなきゃ、というめんどくささの問題もある。

そういった理由によって、基本、避けがちではあるのだけど、「明らかに自分はこういうの嫌いだって感じているのだが、しかし、なぜなのか、自分でもよくわからん」という事態が、けっこうよくあって、この手の形をした話を、書いておきたい欲は、強い。ぼんやりさせたままひとりでごちゃごちゃさせておきたくない。

誰かのツッコミが聞いてみたくもなる。だいたいどの見解にもひとさまの意見を見いてみたい側面はあるんだけど、「なんでか嫌いなんや……」に対しては、とくにそう思いがち。

2026年07月01日(水)品を再取得するチャンス

理解編

あたまに「お」を付ける丁寧な言い回しも、調べてみたら、一律じゃなく、「尊敬語」「謙譲語」「美化語」に分けられるみたいだ。

お野菜、お味噌汁、お掃除、お加減、お品物、お土産、みたいな「お」を付けることばの、存在意義、というか、使いどころ、有用性、上品さに、出会い直せたような気分に最近はなっている。認知があらたまった感じ。凄味に気づいて素直な敬意を持てた感じ。自然と頭が下がる。捉え直すのに数十年かかった。たぶんずっと舐めていた。違ったなと感じている。

そこにある文化に気づけた感じだ。どういったものを大事にしたらあれこれまで大事に見えてくるのか、っていう別軸の視野に手が届いた。そういうものが「文化」かなとも思う。文化フィールドの上に置かれた意味に、出会い直せる機会がある、ということに対しても、素直なうれしさを覚えた。取り逃したらもう取り直すチャンスはないと思っていた。

2026年06月30日(火)ひとことふたことで終わらせておけば破綻しない

長くなるならそれなりに準備する

いくつかのレゴブロックを組み合わせただけみたいな、こじんまりとしたモデルなら、破綻なくサクッと作れても、目指すものが、いくつもの種類のパーツを組み合わせた大きな構造物になってきたら、そうカンタンな話じゃなくなってくる。ミスも破綻も避けがたくなってくる。結果として、入念な準備・計画・チェックが大事になってくる。

文章も、軽くひとこと吐き出してみせるだけなら、矛盾も飛躍もない形で終わらせやすい。一文でおかしくなってくることはあまりない。けど、見解の背後を探っていったり、理屈を積み上げていったら、だいたいは、崩壊の足音が聞こえてくる。キレイなまま進んでいくのも難しくなってくる。不可能とまではいわないけれど、困難だ。漫然と進んでいくだけで完成していってくれることはそうそうない。

こういうときの「事前準備」(設計や方針の決定)が習慣づいていない自覚はかなりあって、反省点のひとつだ。

漫然した歩みだからこそ生まれる、あせりのないゆるやかさや右往左往する楽しさというのも、たしかになくはないから、そこに甘えている、と言ってもよい。ときどき出くわす"当たり"みたいなものに甘えている。運頼みでなんとなくよいものになるのを期待している。なにもしないでいいって思っちゃっている。

あるいは、どこにも切りこんでいかず、わかりやすい外周だけをなぞっていくような、安直な進め方なら、たいした破綻やミスもなく、話を運んでいける気も、しなくはない。そういったスタンスに終始してしまっているところもありそう。反省はした。

2026年06月29日(月)日記の言葉のほうがノーメイク寄りではある

口からの言葉は微妙にかっこつけている

肩の力を抜いてすなおに人と話しているときの言葉が、とはいえ、そこそこゆがんだものであるのは、常々感じる。あんまり精査もしてないし。理想と見栄のごまかしが混じる。気づかないくらいちょっとだけ整えている。赤裸々・素直・率直・本心みたいなものを心がけていることも多いけど、なんだかんだ、ノーメイクではないなと思う。

日記くらいがちょうどよい気はしている。同じ自分の言葉だとしても、ひとと話しているときのそれにフォーカスするなら、部屋でひとりでちょこちょこ書きつけているこの文章のほうが、信頼がおけるというか、まあ、そこまでではないにせよ、ゆがみは少ない。日記もたぶん、完全なノーメイクにはできていないと思うが、口から出している言葉よりは、たぶん潔白だ。それが楽しくて日記を書いているところはたぶんある。それが楽しくて日記を読ませてもらっているところもだいぶある。

2026年06月28日(日)いったんゴールまで

美意識のみで

ちゃんと読み手に配慮して、読んだひとがおもしろいと思うであろうものを書かなきゃ、夢見がちだと莫迦にされないよう現実もちゃんと見えているよう振る舞って書かなきゃ、みたいなツマランことはさて置いて、自分のこだわり、かっこつけ、耽美みたいなものだけに注力し、突き詰めていくスタンスでいけば、小説やらなにやら、書けなくない気もしなくはない。とにかく完成させるみたいなことを考えるならこのやりかたかなと思った。自分にとって気持ちよいことばっかりやってれば、きっといったんゴールまではいける。

2026年06月27日(土)知と心の整合

天才的な計算・記憶・発想などが人間関係を上手くいかせるか

計算する力や記憶する力がたいへん高かったとしても、人間関係がかならずしもうまくいくわけじゃないっぽいんだね、ということを、あらためて考えさせられる場面があった。友達や恋人といった人間関係(名前なんてついてない関係性のほうが主なところかもしれないが)を下地にした、自分の希望や幸福を、ちゃんと自覚し、行動できているかどうかと、計算力や記憶力といった知力は、つながっていない部分も少なくなさそう。

IQとEQで概念が線引きされている理由ってこれか~、と思った。うまく生きる力、幸せをつかむ力が、計算・記憶みたいな知性にばっかり依拠していなそうなところは、ありがたいところでもあるが、たいへんだ。

心と知の不整合

自分が心の奥底で欲しているものを、ちゃんとまっすぐ欲せるように、そして手に入るように、そして愛せるように、自分の知性が都合よく形成されてくれるとは限らない、って感じなのかなあ。形として合う合わないはありそう。高低差のバランスとかではなさそう。うーん、たとえば、プライドや美意識が邪魔してそんなものを自分が求めていると認められない(ので不幸寄り)、みたいな事態があったとしたとき、整合していないのはどこなんだろうな、とは思う。「認められない」か「気づけない」かでも話が変わってきそうだ。