木漏れ日充電3/21火

思い出す

祝日。春分の日。休み。

毎日いろんな作品や記事には触れる。思い出して記録しようとすると時間はかかる。できるだけ記録しておきたいので日記を書くときにはそんな調査時間も費やしたりもしている。「思い出す」時間を挟みがちだ。日記にかかる時間はさまざまだなと思う。いろいろな要素で変わってくる。ぼんやりと薄く曖昧に書けば比較的すぐに終わるし、しっかり丁寧に描こうとすると時間もかかる。どちらかといえばしっかり書きたいほうだ。なんというか、緻密に描きたい。緻密な文章ってそもそも"出力"するのが気持ちよい。ひとつひとつの部品を丹念に精査しながら細かい言葉をいくつもぶつけ続けていく(そうして解像度を高めていく)ことの快感があると思う。結果として日記には時間をかけがちになっている。10分15分くらいでさっさとその日のことを書いてしまいましょうとはときどき省みるし、日記にあまり時間をかけるのは有害ですらあるんじゃないの(もっとほかに時間をかけたほうがよいものがあるだろう。というか普通に勉強時間にしたほうがよいよ)とも思案するのだけど、なんだかんだ、じっくり腰をすえてしまうことが多い。目の前の快楽に溺れているだけ説はかなりあるけど。

『クビキリサイクル』

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西尾維新のデビュー作『クビキリサイクル』を再読した。同シリーズの新刊というか新章が最近出たので、それを読む準備として、過去作を思い出しておこうという試みだ。続刊のストーリーや設定を踏まえるとなんとなく地味な話だし、こなれてなさも感じるところがあって、物語シリーズあたりで結実した語り口の巧みさを再認識させられることとなった。いやでもこの『クビキリサイクル』での哀川潤の出演のさせかたとか、超能力者の位置づけの扱いかたとか、うまい、とは思わされたし(途中まで、けっこう普通だな~、って思いながら読んでいたのだけど、落ち、で、がつんと面白味が濃くなった)、あと、伊吹かなみってどうなったんだっけかな~、とも思ったけれど、ここは『ネコソギラジカル』あたりで再登場してた気もしている。いまいち憶えてないので再読が楽しみだ。初読のとき、姫菜真姫がかなり好きだったことは憶えていて、やっぱり好きだった。もっと活躍して欲しかったな。あとあかりさんとひかりさんの区別が今回も曖昧だった。

粗出し疑問文3/20月

『哲学入門』戸田山和久/ちくま新書

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たとえばあなたは、何だか気に入らないというだけの理由でよってたかって暴力をふるわれたりする、といったことは自分の人生に起こらない、と思って暮らしている。かりにそういうことがあったら、裁判にでも訴えて闘えると思っている。というか、自分はそのような理不尽な暴力にさらされるいわれはない、という考えをそもそも抱くことができる。これは何のおかげか。誰かによってつくられた「生存権」とか「人権」といった概念が、それに価値を見出した人々によってリレーされ、あなたの手許に届いたからだ。概念はしばしば所与なので、自然なモノだと思いがちだが、じつは設計者のいる人工物だ。

その概念づくりの作業が行われなかったら、リレーがどこかで途絶えていたら、あなたの生活はいまほど幸せではなかったはずだし、じっさい、まだそれらの概念の恩恵をこうむることができない人々が世界のあちこちにいる。

概念は、テクノロジーと同じくらい生存にかかわりをもつ。だとしたら、人類の生存に資するよい概念を案出したり、既存の概念を改訂したりする技術、つまり概念工学が必要だ。で、哲学のキモは概念工学にあり、というのが私の結論だ。

もちろん、概念づくりに携わるのは職業的哲学者に限られない。それぞれの分野と現場で概念はたえず生み出され改訂されている。ただ、哲学者は概念いじりの訓練を受けてきたので、ちょっとばかりその作業が上手になっているはずだ。だから、哲学者は外部にフィールドをもち、そこで協働するのがよい。というわけで私は他分野と地続きの応用哲学を奉ずる。

テクノロジーと同様に概念も暴走して災厄をもたらす。迂闊に概念を「深め」たり「拡大」するとそうなりがちだ。日本人の誇りとか、革命の大義とか、国家の品格とか、人生の意味だとか……。理性や自由もそうかも(このへん、私いささかポストモダン)。そこで私の概念工学はミニマリストになる。悪さをしそうな概念を、科学的知見と両立可能なものに切り詰め、そのしょぼい概念でも生きていくのに十分でっせと、そっと差し出す。つまり、環境に優しい省エネ概念だ。

ミニマリスト概念工学としての哲学|ちくま新書|戸田山 和久|webちくま (webchikuma.jp)

戸田山和久の著書『哲学入門』を読み終えた。非常によかった。物理主義・自然主義・唯物論といった「モノだけ世界観」のもとで、意味・機能・情報・表象・目的・自由・道徳・人生の意味といったものたちを「ありそでなさそでやっぱりあるもの」と呼び、それらを成立させるため、さまざまな例をこねくり回してわずかな隙間に針を通そうとしていく試みに、とてもワクワクドキドキさせられた。「意味」とか「情報」を、「心」とか「主観」に頼らないで出現させる手際に感心しきりであった。

歴史上の有名な哲学者に話を寄せず、現代的で先端的な哲学者の知見を軸にしてくれていたところも素敵だったし、これだけ軽妙な語り口を採用しておきつつ、論理の積み上げは丁寧なところにも衝撃を受けた。非常に楽しい読書であった。

ゆっくり読む

『哲学入門』を読んでいるとき、途中で、読解速度をかなり遅くした。話が追えなくなっていった。一文一文から読み取れる意味と論理をかなり真剣に追っていかないと厳しい読書になるなと気がついた。最近こういうふうに丹念に読むことを忘れていたな~という反省も思った。バシバシ読み進めて先入観で論旨を勝手に決めつけるような読解が多くなってしまっていたかと思う。

読んだつもりになっているけど実はまったく読めていなかった、というのは、前に、『わかったつもり』(西林克彦/光文社新書)を読んだとき、冒頭部で"読み飛ばしたひとがするであろう理解"の例が挙げられていて、見事に当てはまったので(そして大きな衝撃とダメージを受けたので)、できればやりたくないものだ、とは思っている。

けど油断するとやはりやってしまっているんだよな~、とあらためて反省した。特にWEB記事なんかは軽佻浮薄なスタンスでかなりバシバシ読み進めてしまっているところがある。ライトノベルとかもそういう傾向あるだろうし。むむむだ。

空振り思案中3/19日

次の文章のために

文章生成AIが「文章を書くときに人間が考えていること」("書くときにはこう考えているはずだ"とこれまで思われていたこと)に関するパラダイムまで転換させかねない、という可能性についても最近は語られていて、楽しそうな切り口だなと感じる。文章生成AIの構造からフィードバックする形で人間の「言葉の使いかた」を見直す試みだ。

ある文章が目の前にひとつあったとき、わたしたちは、その次に来る文章を"考えている"と思っているけれど──つまり"選んでいる"あるいは"思い出している"、というような状態を想定しているかと思うのだけど、実際はそうではなく、昨今の文章生成AIのように「次に繋がる文章を"確率的な濃淡の中でランダムに発生させている"だけなのではないか」という視点だろう。おもしろいし、ありうる、とは感じる(文章生成AIの機構がほんとうにそういう形なのかしっかり理解できているわけでもないのだけど)。

文脈の感じ、条件設定の感じ、話題ごとの進めかたの感じ、単語の分布の感じ、といったもろもろの"感じ"の濃淡をチェックして、次に来る"相性がよさそうな「連想」"を生じさせているだけ、というモデルで考えるのは楽しそうだと思える。ちょっとした齟齬やズレがあった場合、無意識に精査したり調整したり、都合よく解釈し直したりしてそうなところもありそうで、そこも楽しそう。

連想については、シンプルに考えると、「次に置かれうる単語」みたいに考えてしまいそうになるのだけど、おそらくは、もっと広い範囲、たくさんの条件を加味し、複合させて、巨大な区切りで「次に置かれうるもの」を算出してるんだろうなと思う。実際に描かれるのはひとつの文章だけであっても、その文章がそこに置かれるための背景は巨大なものであって、その巨大な背景を造り上げるための"連想"がなされていそう、という理解だ。

目隠し集合論3/18土

平凡の切り取り

普通の登場人物、普通の出来事、ごく普通の日記であっても、「抽象化するセンス」による差異は感じる。職場や学校で話した雑談というありがちな出来事を端的にどういう言葉で提示するか、ただの友人やクラスメイトというくらいの一般的な人物の特徴をただひとつ取り上げるときになにを見せようとするか、というところに対し、よい角度、よい位置、よりよい切り取りかたをするひとがいるし、逆に、そういうものが特に感じられない平凡な話をするひともいるな、とは感じた。なんか妙に心地好い切り取りかたをするなあ、出来事はふつうなのに、と思えるような文章を読んだ結果だ。

Human: Fall Flat

深夜にオンラインで遊ぶ。雑談的に最近おもしろかったものについて話したあと、『Human: Fall Flat』のマルチプレイで遊ぶことになった。最近のアップデートで新マップが追加されたという情報を見かけていたので、それで遊ぼうと提案した形だ。『Human: Fall Flat』はぐにゃぐにゃしたキャラクターが特徴の物理演算アクションゲーム。まあアクションゲームというよりはパズルゲームになる気もする。マップごとに用意されたギミックを駆使してゴールまで進むのが目的だ。その過程でいろいろなパズルを解いていく。物理演算のおかげでちょっと無茶な策が通ったりするのがおもしろいところだ。

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幕開け新時代3/17金

文章生成AI

文章生成AIの登場と性能が昨今のおおきな話題だ。人間の思考のような形式で「文章を書いている」のではなく、いうなれば「確率的に"次の文章を生成"していっている」という説明は見かけたのだけど、これが適切な比喩なのかは不明である。わかりやすい切り口だとは思うけれど、もう少し精密に理解するよう努めたほうがよさそうな気もする。

新版となるGPT-4が登場し、旧版で見られた問題をかなり解決してきている、とさらに騒がれている。ほんとうにすごいことになってきた気配がただよっている。GPT-3の段階ですでに想像を超える出来栄えだったのに、それをこの短期間で超えてきてしまうんだな~、というのは衝撃だった。ほんとうに今後どういうペースで進んでいってしまうんだろうなとは考えさせられる。思った以上にサクサクと進んでいって気づいたらとんでもないところまで連れていかれそう。それが楽しみ、とも思うし、多少は怖くもある。

「手ずから単語を検討するのは不自然」「いまのような書きかたは旧時代的」、というような空気および文化が、今後、醸成されていくのであれば、それはちょっと嫌かも、とは思ってしまうかな~。文章を書く楽しみは感じているのでそれが消失していく流れは避けたいとか思ってしまうところはある。書くことを趣味とするひとたちが少数派になっていき「いたたまれない」「身の置きどころがない」と強く感じさせられるような時代が来てしまうなら嫌だなあ、といった話ではなくて(もちろんそれもないといいなと思うけど)、書くことに楽しみを見出すようなルートがそもそも消失しそう、ということに対する不安。パラダイムが変わりそうというか。

文章を書くという事柄に対する意識自体が今後大きく変わっていき、パラダイムシフトが訪れかねない状況なんじゃないかと思う。現代における"文章"への意識は完全に消滅し、いまとはまったく異なるものへと刷新される可能性は、大いにある。もちろん、こういうふうに歴史的なうねりに乗せられて消えていった"ものの見かた"なんてこれまでだっていくらでもあったのだろうけど。そして、それを止めようとしてもあまり意味はないのだろうけど。新たな時代に進んでいくことのほうが、総合的なメリットは大きく、至極自然なことなのだから、留めてどうする、という話もわかるはわかる。とはいえ、いままさに楽しんでいるここからの視点で物を言うなら、まあ、少しブレーキをかけてみたくなるというか、多少の軌道修正は試みてみたくなるところはあるのだった。

ありうる重層3/16木

可能性の層

“ホラ吹き”や”口先三寸”ってことでもないけれど、軽口やらジョークやらを織り交ぜて、「テキトーなこと言うやん」とツッコまれるような文章をむしろ書きたい気がする、とちょっと思った。しゃれっ気や軽妙さを求めた感じだろう。変に形式的で格式張った情報記事を読むことがあって、つまんな、と思ったことの反動だとは思う。そもそもあれは情報をシンプルにしようと削りすぎて「読みづらい」「下手」と言えるレベルまで文章の質が落ちていた気もするのだけど、まあ区別は微妙だ。

とはいえ最近は、無駄な単語を削ぎ落とす大切さもかなり理解できるようになってきたため、あれくらい攻めるのが重要なのかもな~、とも思わなくはない。冗長よりはマシ、という判断もわかるようにはなった。とか言いつつ最近またすっかり忘れていたけど。

漫才のボケくらいしっかり「思ってるんだか思ってないんだかわからん」を織り交ぜていきたいという気持ちではある。が、そういうのってツッコミがいるから成立するんだという問題もあるからなあ。調整は難しい。放言や空言で惑わせたいとか騙したいとかではまったくないし。

ちなみに、テキトーこいたことを書いて文章をおもしろくする、という切り口において、あんまり自覚ないけど普段から活用しているのが、「~だろう」「~らしい」「~ようだ」「~かもしれない」といった言葉たちになるのかなとは思った。こちらのほうにも道は拓けているようなのでいちおう触れておきますね、といった言葉で空間を拡げていくというか。断言するとウソになるが、推測や伝聞、可能性ならウソにはならない。こういう層までうまく重ねることで文章により厚みが出せる、面白味も出る、という次第だ。