世界は称賛に値する

日記を書きます

2026年05月10日(日)ひとことじゃ終わらせられない

わかってもらいたい

記録として断言的にひとことしっかり言い切ってみせればいいことに、くだくだ説明を足して、長くなる。つまりは説明したいんだなと思った。背景を、文脈を、意図を、気持ちを、わかってもらいたい。その衝動を、恐怖感や危機感を、スルーできない。押し止められない。まあでもそれはそれでよいんだろう。それもまた特性だ。良い面もあるんだと思う。そのあたりを、いわゆる人間としての強さ弱さ、精神の弱さ、自立や自主の話にしちゃいそうな手癖もなくはないが、それ一辺倒で考えるのも、また、おかしな話ではあるし。

2026年05月09日(土)自己価値を確定させられはしないが

よかったさがし

否定や軽侮みたいな目線が(ぼく主観で)目立つなか、自己評価を信じる・自己価値を信じるのって難しいなあとは思う。それを体感する昨今だ。自分だけで自分の価値を確定させるのはかんたんじゃない。どうしてもひとさまの言葉や態度でブレる。

結果として、(自分の)よかった探し、みたいなことをしているシーンが増えている。ここは人より優れている、誰かの役に立っている、そういう切り口で自分を見ることが増えた。とはいえ、この切り口もよいものじゃない気もしている。まず、妥当な切り口かどうかがあやしい。そんな不安定な切り口で自分を断ずることの是非やダメージもおそろしい。そうやって見つけ出した「自分のメリット」を信じていくのもまた、危うそう。

いいところ

まあでも、そういった最近の方針とクセによって、「ここはたしかにけっこう自分のいいとこなのかも」と言えそうな部分を見出しやすくなったのもたしかだ。切り口はじゃっかんあやしいものだとはいえ、よかった探し自体については、悪いことばかりとも言えないなとは思った。

自分にとってはごくごくふつうのことなんだけどひとさまから見たらちょっと異質、みたいなところを、探す。なんというか、わざわざそういったところを見つけ出そうとし、救いの糸みたいにすがってしまっているところもあるんだろうけど(それもそれで怖いところだけど)、でもまあ、見出せるのは悪いことじゃない。

とりあえず、だいぶミーハーだけど好奇心だけは旺盛だなと思った。世界がつまらないと思ったことがあんまりない。ここは、ちょっと、着目しておいてよいところのような気はする。浅はかな感じになるけど、リスト化するくらい、してもよいのかもしれない。

2026年05月08日(金)感想の対義

hokuohkurashi.com

感想禁止

日記書きの古賀及子氏の話を読む。指針・手法として話されている「感想禁止」ルールはインパクトがあった。感想や内省を削って、知覚した事実を書く。出来事を書く。「描写」に体重を乗せる。書く技法として語られがちな「描写/説明」という対比も連想した。

説明と感想って同じことなのか?と、まずは考えていった。同じ現象の別側面がそれぞれ別の名前で呼ばれていることはよくある。実際、似ている要素もあるとは思った。が、違うところも目立つ気はした。同じとは言いがたいくらいには別軸だ。「描写」の対義語に「感想(内面)」「説明(圧縮)」のふたつがあると考えたほうが妥当そうだなと思いつく。

「描写」は「内面じゃない」し「圧縮しない」なんだなと思ったしだいだ。ふたつの特徴があって、それぞれに、対義がある。

特徴ごとの対義語

あるものには、いくつかの特徴があって、そのうち、どの特徴にフォーカスするかで、対比・対立・対義させるものが変わってくる。こういう配置のものってけっこうたくさんあるんだろうなと思った。反対の意味を考えるとき、一対一で考える癖がついてるので、そこは気をつけたい。「描写」の対立軸に「説明」ばっかりくるのも違和感があったのだけど、その謎の一端も解けた。

2026年05月07日(木)思考の連鎖をちょっとズラす

つぎに思いつくことを操作

あることを思いついたあと、連鎖的に、次のことを思いつく。ここの「つながり」(つなげかた・つながりかた)に、スタンス・モード・世界観・価値観といったものが立ち現れてくる印象だ。

ここの自動処理を完全コントロール下に置くことはできなそうだけど、一定、手を加えることなら可能っぽくて、結果、そうすることで、生き方を、少しずつなら変えていける感じもしている。まあでも一足飛びには進めない。ゆっくりにはなる。ゆっくりもやりようなところはありそうだけど。ともあれ、きっちり「つながり」を見つめることが大事なのかなとは思う。一歩目だ。

2026年05月06日(水)知と知の組み合わせの先に光がありそう

あるとは限らない

過去の哲学者たちが、だれにも真似できないような鋭い手際で、事態に切りこんで、解体し、腑分けし、「ここではこういうことが起きているのではないか」「この背後にはこういう運動があるのではないか」「こことここがこうつながっているのではないか」と看破してみせたもの。それらをさらに組みあわせ、一歩また先に、鋭い世界解釈を進めてくれるひとが、ときどきいる。

この解釈とこの解釈の組みあわせることによって、こんな新しい光景が繰り広げられる。視座をあぶり出せる。そのうえで、こんな明瞭な説明まで可能になるんだな、って驚かされたりする。その新しさ鋭さにはたしかに舌を巻く。

しかし同時に、そうしてもたらされた驚きによって、そこの理屈を、なかば自動的に信用まで届かせてしまっていることがあるんだよなあ、とは思った。気をつけたいなと思う。

これまで誰も気づけなかった構造に気づき、語ってみせたその歴史的インパクトに、流されるかたちで、心酔や崇拝めいた敬意まで抱かされてしまっている事態が、たまにある。結果として、そこで提示されていた新解釈まで、疑うことなく、受け容れてしまっていたりする。いつの間にか肯定してしまっている。こういう受け止め方はちょっと違うんじゃないかなあ、と思う。

カントとデカルトとキェルケゴールが打ち出した理屈から、あらたな地平や概念を見出し、世界を再解釈してみせるようなことが、かならずしも、真理に向かう道につながるとは限らない。どんなに緻密で丁寧な歩みもまるっきり見当違いの可能性はなくもない。数千年が徒労に終わる可能性はある。とはいえ、それでも、「知の積み上げ」をやっていくほうが「よい」世界につながる確率は高くなるはず、と信じたくはある。一定、そういう信仰は持ちたい。さすがに「知」にそれくらいの希望は持てていないと絶望的すぎる。

2026年05月05日(火)音楽自動生成

誰が造るか誰が歌うか権利はどうか

音楽生成AIが明確に台頭してきたが、どういう認知で受け止めたらよいのかわからない。とくに、過去作のアレンジについては、どうしたらいいんだ、すなおに楽しんだり喜んだりしていいのかわからん、っていうテンションが最近はある。現状、ただただ朴訥に聞いて楽しんでいるところもなくはないが、改変がいやなのか、勝手な改変だったらいやなのか、作者の気持ちの問題なのか、権利の問題なのか、よくわからん、ってなる。

とりあえず、画像・動画の自動生成に対するものとは、ちょっと異なる目線を自分が持っていそうなのは、わかった。音楽とひとことでいっても、歌/音楽のあいだで、スタンスに違いもありそう。迷いがありそう。歌(声)と、音楽は、別扱いして当然じゃんって気もするし、やりすぎなんじゃないのって気もする。あえて分ける行為がズルい気もしてくる。

なんにせよ、なんというかこう、自分が、いうなれば神聖視的な目線を、「音楽」「歌」「声」あたりに向けていそうではあった。ちょっと意外ではあったものの、「音楽が世界を救うのだ」みたいな言説を、だいぶ素直に受け止めているところは昔からあったから、そういう文脈を持っていたんだとは思う。音楽が持つ根源的で身体的・生理的な強さみたいなものにはずっと惹かれるところがあった。敬意もあった。

とはいえ、人間が歌ってようが機械が歌ってようが気にしないでいたい欲もなくはない。選別したいかといわれたらそうではない。このあたりの問題と、既存の音楽の好き放題にアレンジしていくことの権利関係の問題って、それこそ関係ない話じゃん、って気もするし。