世界は称賛に値する

日記を書きます

受診予約の9月30日土曜日

昨日の反省日報の反省

理由が三つあると思ったら三つをぜんぶ記録しておきたくなる。一つだけに絞って書いたとしても別に嘘ではないがなぜかぜんぶ書きたくなる(結果、時間がかかる)。二つ挙げたあとにまだなんかありそうだなあと感じたらもう一つを書けるまで待ってしまったりもするし、文字面を見てなんとなく関係ありそうな(けれど合っているかは不明な)理由を並記させて穴埋めしてみせることすらある。出来事は時系列でしっかりと描いておきたい。思考経路も欺瞞なく描きたい。持っていた知識も過不足なく描きたい。判断基準も明瞭にしておきたい。そのうえで、間違いについては「なにが間違っていたのか」いまならわかっているよという状態で描きたい。次は対処可能だというテンションで書きたい。冷静ぶりたい。けれど恥ずかしい理由は誤魔化したい。悪意や害意、違法や違反は隠したい。

というような混乱が昨日の業務日報的な振り返りを書いたときには巻き起こった。すっきり書けなかった。理解が浅いせいでの失敗を記録し、それを踏まえて次に活かす、という趣旨なのだからすっきり書けなくて当然じゃんとは思う。すっきり書けるなら最初からミスなんてしない。混乱していたときのことを整理し直して書くのはあらためて難しい。あっちにいったりこっちにいったりするし、言葉足らずだし。まあわかってはいても、あとから読み返してみて、不安と不快にはなった。ちょっと手直しもした(読み返したらだいたいするが)。

土曜日

お子様の粉ミルクアレルギー対策を継続しておこなっている。現状では些細な症状だが、抵抗力をつける対処を日々続けていくことが大切らしい。重大化が阻止できるとのこと(運もある)。今後の指針を聞くために病院に行ってきた。コロナもインフルエンザも流行中なので病院に行くのはむしろ怖い。が、朝一番だったおかげか患者は少なめだった。よかった。聞いた限り経過も順調だった。今後は焼きプリンが食べられるようだ。焼きプリンは嬉しいね。

毅然裁定の9月29日金曜日

後ろめたい裁定

厳しい査定を伝えるための業務があった。活動結果を精査し、基準に則った評価を下して、それを相手に伝えることの補助業務だ。そのときに、なんというか、御機嫌取りみたいになっていたと思う。反省点・改善点としてあらためて意識している。こういうときにやってしまう"顔色伺い"はほんとうによくない。むろん配慮してもよいが機嫌を気にするのが主目的ではない。そこの優先順位を混同しているのはよくない。互いの認識を確認し、嘘がないことも確認し、現状・課題・信頼を、細かい粒度で理解してもらうことが主目的だ。それがうまくできていなかったなと感じる。失敗まではいかないがぼんやりしていた。御機嫌を意識しすぎるあまり伝達に軋轢が生まれていた。前後不覚のまま進めたせいで後ろめたさすらにじみ出ていた。後ろめたさ問題は厳しい査定を伝えるときにやらかしがちだ。けどこれ、後ろめたいと思っていることがそもそもズレてるんだよな~。過去に指摘されたこともある。自覚もある(詐欺・改竄・隠蔽・いかさま・論点のすり替えといった後ろ暗さがあるなら別だけど、そういうことでもないし)。適正な基準と嘘のない運用で、互いに納得しているのなら、そのうえで、残念ながら基準に達していなかったとしても、その評価を伝えることに、後ろめたさを覚える理由なんてないはずなのだ。にもかかわらず後ろめたく思ってしまうのは、情報収集が足りないせいである。背後関係を鮮明に理解できるくらいの情報をしっかり集めることができていれば、納得して動けるし、後ろめたくはなりにくい。適正な基準か、嘘のない運用か、という問いに迷いなく答えられるくらいの情報が、いまだにない。そりゃ後ろめたくもなるわと思う。情報収集サボんないのが第一だねえと思った。ひとに対して厳しいことをあんまり言いたくないんだよね~という甘えも影響しているので、そこも指摘すべきだが、まずは無理解による浅はかな後ろめたさを消すところから始めたほうがよい。なんにせよ今日は無理解がまだあって、質問に対して、甘えた回答(あのひとがこう言っていたのでこうだと思います的な)が出てしまっていた。繰り返すが改善項目だ。結果として慰めのための小手先の応援になってしまっていたなとも思う。できれば背景の正当性まで把握したうえでの厳しいながらも的確な応援を伝えたかった。

動画の面談的なシーンで、「後ろめたいと話が抽象的になる」という指摘があって、なるほど!ってなった。たしかに今日のフォローじみた声かけは抽象的になっていた。うさんくさかった。

しっかり理解すればまったくうさんくさくない清廉潔白な案件なのに、情報収集や勉強をサボったせいで、自分の中の「うさんくさい」を消しきることができず、しかもその状態で相手と話をしてしまって、むしろ不信感を抱かせてしまうことがある。誤解が誤解を呼ぶというか。哀しいうさんくささが蔓延してしまう機会がある。互いに無駄にモヤモヤさせられる状態だ。まったくよくない。流石にこれは避けたいなと考えた。理解不足でよくやらかしている。甘えもある。情報収集と勉強で避けられそうなのでなんとかしたい。

日報日記の9月28日木曜日

業務日報と日記を混ぜる

業務日報と日記を兼ねたものも書いていくようにしたい。それによって業務に関する記憶の定着率を高められることを期待した。また、業務の文章と日記の文章をうまく重ね合わせることで執筆時間の縮小も狙えたらよいなとも考えた。時間配分を見直して勉強時間に回したほうがよい最近である。時間配分とか言ってないで普通に勉強しろよというツッコミは当然あるが。という意味では勉強記録を日記として書くんでもよい。というか前にも似たようなことを書いたな。結局のところ、日記というか文章を書くのが楽しすぎて油断するとすぐ流されてしまい、耽溺しているので、なんとかせねば、と再度あせっただけの話だ。苦肉の策の話だ。

判断ミスを引き起こさない分母の底上げ

現職では(減ってはきたけれど)まだまだ判断ミスがある。前提と基準、権限と承認の経路、情報収集とリスク管理、それぞれに対する理解の浅さが難点として挙げられがちかな。まだまだ理解のおよんでいない領域がある。結果として、対応が遅くなり、確認も遅くなり、措置もぼんやりしたものになっている。

このあたりを「文章」によって改善したい感じだ。経験したことをあとからあとから忘れていっているとまで言う気はないけれど、少しずつ零れ落ちていっているのは間違いない。それを"振り返って言葉にする"ことが食い止めてくれる範囲はあるだろう。記憶から(知識から)「文化」「姿勢」「指針」といったものを抽出していくべきなんだろうとは思う。記憶の定着率の上昇から"空気感"の掌握率の上昇も期待したいと言えるかな。

単語ではなく文章で

キーワードをリストにして記録を残すのではなく、意識して「文章」という形状を使って書き残すことの重要性を最近は感じている。接続詞、順番、論理、主題、ネットワーク、流れ、などがキモになってくるので、キーワードの羅列はやめたほうがよい、という判断だ。それはキーワードの羅列じゃ残せないよと思った形だ。キーワードを羅列しておくくらいの業務日報は書いたこともあったが、そこであえて「文章」を選ぶことの効果もまた、見直されてよいと感じる。そこでの頭の働きの違いを考えてみてもよい。

断言優先の9月27日水曜日

強弱にこだわっているひまがあるなら

「とても」「かなり」「少し」「やや」「ちょっと」とかの副詞の乱用を避けていると数日前の日記で書いた。

meltylove.hatenadiary.com

こういった気持ちの強弱は、別に、欠けることなく伝えなければいけないものではない(伝えたいと強く感じられたときにのみ使うと決めて、減り張りをつけたほうが、きっとむしろ伝わりやすくなる)と考えた結果だ。けれどそのぶん、正確性というか、精密性というか、ほんとうにしっかりと自分の心に問いかけたときの答えは、描けなくなる、んじゃないだろうか。省かれてしまうのは間違いないはずだ。なら、おのれの心の記録としてはよくないのでは?おのれの心を把握するための認識力を鍛える機会をおのずから手放しちゃっていることになるのでは?とも考えた。

暫定的には、そんな強弱にこだわるより、その時間で、もっとやれることがあるんではないか、というのが結論だ。ある気持ちの強弱に目を向けて、それを残すかどうか迷っている暇があるなら、むしろ、別の一文、解説なり、補助線なり、別枠なり、新たなスポットライトになってくれるであろう、新たな一文を、その横に置くかどうか検討していたほうが、効果的なんでないか、と思ったのだった。

ぼくがそれを"どれくらい"嫌いか、その強弱を副詞で詳細に書いてみせるくらいなら、まずは「嫌い」と言い切ってしまって、そのあとに、「ニュアンス・強弱」の理由や歴史の薫る一文を、置くことで、単なる強弱の話などよりよほどしっかりしたなにかが、伝えられるんじゃないの、と考えた次第だ。そしてきっと、その追加の一文でより多くのことを伝えることは可能だろう。だったら優先順位はそっちが先じゃない?って思った。いつだって時間は限られているんだし、対処すべき問い・答えの数まで検証したほうがよいよ~、と思った感じである。

機嫌由来の9月26日火曜日

火曜日

不機嫌っぽいなと感じやすい相手が昨今の仕事まわりにはいるわけだが、時間の割合でいえば、不機嫌じゃなかった時間のほうが多いはずである。が、不機嫌時の被害が甚大なため割合によってそれを許容することは無理だった。稀だろうと嫌なものは嫌、ってなった。数日前まではそこそこの不機嫌がうかがえ、昨日今日はなんとなく温和な風情が流れていたが、しかし、さすがにそろそろ受け入れがたい、と思った次第だ。まあよいかとは流しづらくなってきた。

機嫌の波がある。寄せては返すこの波の中、不機嫌側の波から被害を受けるたびに、少しずつ、精神の反発的な"張り"が強くなってきている。防衛機構の動きがよくなってきている。温和ならそれに越したことはないし、ありがたい。が、なんにせよ、どんどん、評価は下がっていくものなのだな、と、むしろ今回はおもしろく認識したと言ってよい。おのれの胸のうちを眺めて、なるほどねえ、って思った。

しかし、「不機嫌な上司が嫌だ~」という話をこんなに継続して書き続けてしまうとはと驚かされている。こんなこともあるのかと自分に対して驚いている。いままであまり経験してこなかった事例と言ってよい。これまでいまのような職場を経験したことがなかったのだから、"これまでにない"状態になるのはまったくおかしくないが、それでも意外ではあった。このあたりの日記をあとで読み返したときにも驚かされそうである。流石にそればかり気にしすぎだぞとも言いたくなりそうだけど。

文章としておもしろいかもあやしいしな~。つまらない文章だと判定される確率は高めだろう。愚痴っぽい話は遠ざけられがちだし。さらに言うなら書く側としてのつまらなさもなくはないし。同じことばかり書いている状態はそもそもあんまり好きじゃない。飽きる。とはいえ、つまらなさ一辺倒というわけでもなく、おもしろさもなくはない。特に、情動に振り回されてぜんぜん整理できないところは、なんだかんだおもしろい。混線するあまり辻褄合わせに苦心させられるのも愉快だ。難しいのも嫌いじゃない。といったつまらなさとおもしろさの混ぜ合わせにはなっていて、なんとも言えない状態だ。いずれにせよ、こんな継続して書き続けてなくてよいんじゃないかと考えることはある。でも書いちゃうね。耐えるために書かざるをえないみたいな精神はきっとあるんだろう。

このあたり、軽々しく言語化していると、ほんとうに「つらくて今は文章に逃げています!!!」みたいな空気が出てしまって、嫌だな~。たぶんそこまでではないからだ。言葉を繰り始めたときに、目がなぜかそちらを向こうとする強制力はたしかに感じるし、書いたら書いたで、解消的な効果があるのもわかるのだけど、でもしかし、このひどい傷口をなんとかしたい!ほどの気持ちでは書いていないというか(比喩あってんのか)。いずれにせよめっちゃバランスがムズい。このひと嫌いです!!!ってあんまり言ってこなかったせいなんだろうかとは考えた。免疫がないせいでの過剰防衛みたいなところはある気もする。

中途半端な9月25日月曜日

中途半端な分量の文章

一行から二行くらいの短文に唸らせられることは多い。たとえば短歌や俳句、キャッチコピーが見せてくれる切れ味にはよく驚かされている。想像力への刺激もすばらしい。同じくらい、数ページに渡った随想文に魅せられていることも多いかな。構成がよい、雰囲気もよい、ってなっていたりする。

比べると、その中間くらいの微妙な量の文章のかたまりに惹かれることが少ないかなと今回思った。いわゆる中途半端ってことなんだろうか。たしかに短文よりは切れ味が鈍りそうである。ほどよい随想文ほど素敵な雰囲気も作り出せないのかもしれない。いまこうして書いている文章を参考にして言うなら、"問題提起"だけで終わってしまっているのかもしれない。詰める作業・答える作業をサボったことになりやすい(サボった思考がたどりつきやすい)文章の持つ傾向なのかもしれないなとは思った。そのせいではずれが多くて印象が悪くなっているというか。人は皆、ひとことでぱっと言うか、言えるだけ言いたいことを言い切るか、そのいずれかを好みやすいのだ、みたいなところもまた、あるのかもしれないが。