世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年09月15日(日)なかったことになってほしいわけではない

消えていたはずの記憶

二度と思い出せない記憶もたくさんある。ただ、このまま消え去るのみだったのかもしれない記憶が、偶然、なにかのきっかけで数十年ぶりに蘇ってくれることも、たまにはある。誰かの口にしたちょっとしたフレーズが、記憶を刺激してくれたりする。運よくまた巡り逢える。そういう機会がもたらされる。消えてなくなっていたかもしれない思い出が、戻ってきてくれるのは、嬉しい。

ひとさまから(特に同世代のひとから)、なんとなくこびりついているどうでもよさげな記憶を引き出して、そんなのあったねえ、って言い合うのがだいぶ好きなのだけど、そういう「きっかけ」になってくれることを期待しているところは、たぶんある。

2024年09月14日(土)深掘りすると時間がかかるので

降りていかない

むかし書いていた文章を読んでいると、深掘りが足らん、という気持ちにはなった。せめてもう一段くらいは下に降りられるんじゃないのと言いたくなった。なぜと問うてもうワンステップ先にある理由を模索したり、一貫性や整合性を破綻させる反証をしめしたり、具体的な光景をシミュレートして矛盾する地点を発見したり、いくらでもやりようはあったんじゃないか、って思った。

理屈を説明するとき、一般的には、その理屈が適用できる「シチュエーション」を具体例として挙げて、実際的なところとのすりあわせをしてもらおうと試みたりするけれど、自分の日記文に関していえば、めんどうくさくなって(時間もかかるし)サボりがちである。そんなような怠惰が、上記のような「深いところにいまいち降りていこうとしない」甘さにつながっていったんじゃないかな、とは想像できた。

2024年09月13日(金)省略しすぎ、くどすぎ、バランスの好み

ダークゾーンを照らし出す理屈

職場にまつわる不満はあいかわらず滞っている。上下の波は激しく、消えたことはない。ことばで描き出そうとするたびに感じるが、ゆらめく怨念めいた気持ちの全体像を、明瞭に描き出すのって、ほんとうに難しい。なにかの陰になっていていまだに照らし出せていないところ、一般的な理屈で"代替"して記述してはいるものの実はピンときていないところ、などがある。

ただ、ときどき、暖かくて優しげで的確なことばが、幸運にも、該当エリアまで落ちていってくれることがあって、そんなときには、波紋のような光によって、一瞬だけ、隠れていた思いが見通せたりもする。「そうか、こんな理屈が世の中にあるのなら、自分が感じていたことは、こんなふうに言語化が可能なのでは」、と着想できたりする。

そういう、いまの自分の胸中を運よく照らし出してくれたことば、当てはまってくれたことば、を、記録しておくのもよいなとは思った。時間がたったときに、見失っていることも多い。もったいない。

最近、メモする先を思いの種類によって仕分けたのもあって、「職場に対する不満の見通しをよくしてくれた」ことばの振り分け先も、別途、定めてみてよいんじゃなかろうか、と思った。聞こえのよい(都合のよい)目先の理屈に振り回されそうな気配も正直めちゃくちゃあるが。

論理の距離に過不足ある

昔の自分の日記を読み返して、不快感を発見し、その不快の理由を分析しようとする振る舞いが、謎にぼくの中で流行っている。これも数日前に書いたことだけど、「いまもやってしまっていそうで怖い」ため、「昔の日記になぜそれを感じるか」を見出し、「原因」を明らかにすることによって、「いまはやらずに済んでいる」のだ、と納得したいんだと思う。見つけ出した「原因」をもとに、いまの文章を精査したい。もしくは、発覚した「原因」によって、いまもまだ「やらかして」しまっているのが明らかになったなら、流石に、今後は、その「原因」を正していくことができるだろう、と期待しているんだと思う。

昔の日記・文章を、いまの自分が見直していると、とりあえず、文と文の距離、論理の距離感、みたいなものが、ヘンだ、と思えるところはあった。短すぎて異様にくどくも見える。ときには長すぎて(つながっていると見做せなくて)、飛躍、または断絶や破綻にすら見えた。華麗にジャンプしてみせたような顔つきしているけれど、ぜんぜん手前に落ちているようですけども……、みたいな違和感もあった。総体として、もうちょっと親切に説明してほしいんだけど、とは愚痴りたくなった。

ただ、理屈を説明するときの距離感って、趣味の違いという面もあるというか、どちらかが間違いでどちらかが正しいという話ではないんじゃないか、とも思う。文と文の、飛躍や省略、または、丁寧で精緻なつながり、って、結局は好みの問題に帰結する範囲もあるんじゃなかろうか。と考えた場合、一時的な(今の)目線で、都合よく是非を分けるのも、なんとなく違う気はする。「そうはいっても、一般的な文章指南レベルでいって、説明足りてなかったでしょ」というツッコミの対象範囲内な気も、また、しなくはなかったけれど。

2024年09月12日(木)素敵な解釈を、真実を語る振る舞いだと誤認した

真似して書き始めたが勘違いしていた

一見ではつながってはいないように見えた、ふたつの要素を、見事な手さばきで、華麗につなげてみせる。認識外にあった「パス」を切り拓いて、接続してみせる。そうして、新しい景色をもたらしてくれる。そんなような着眼点の持ち主に、たいへんあこがれていた。そして、それを理解しやすいよう加工して語ってみせる腕前にも魅せられていた。はるか昔のインターネットでは(テキストサイト期からブログ期の最初の頃のホームページでは)、そういった文章を、高い頻度で読ませていただいていた印象だ。

あこがれて、自分も、文章を書き始めた。ただ、ぼくは、そういった文章を読んで、それが「真実」を語る所作であるかのように、誤解したところがあったんだと思う。厳密にいうなら、「真実」というものに関連してくれそうな、ややこしい概念を多用すれば、それだけで上記のようなことが可能になるんだろう、と、(安易にも)勘違いしたんだと思う。そこで語られていたことの性質をきちんと理解することなく、ただ、語り口の外面的な特徴にばかり気を取られて、それをトレースすればよいのだと思いこんでしまった。しかもそこに、(あこがれで盲目的になっていたせいで)「真実」「本質」「神髄」みたいな輝きまで幻視してしまった。

わかりきったようなことを、ちょっと小難しい言い回しで、かっこつけて、偉そうに、賢しらに、語ってみせていたのは、おそらくそのためだったんだろう。と、過去の日記を読み返していて、ちょっと想像させられた。しっかりと検証できるわけじゃないけれど、思い当たるフシはたくさんある。語りかただけ(見た目だけ、しかも劣化版的に)物真似していただけだった。

いまも同じやらかしをしている可能性

ちなみに、いまでも同じことをやらかしてしまっているのではないか、とは思わなくもない。けっこう怖い。実際、そういった要素(表面的なところにばかり終始していて、内容が甘くて薄い、というやらかし)が、皆無、ってこともないだろう。日記を書くときのことばが、ふだん使いのものと違うのは間違いないし。演じているというか、かっこつけて装飾しているところは明らかにある。内容よりそちらに気を取られている面もあると思う。別にそれが良い悪いの話でも本来はないはずだけど、しかし、結果として、「見た目だけ」真似して、そこにある内容を誤解している状態がいまでも続いてしまっているのであれば、流石に嫌かも、とは思ったのだった。真実を語ってみせると躍起になって、小難しい言葉を使えばそれが為せるんだと、そんな誤認を、いまだ、足場にしてしまっていたら、いやだな~、とは思ったしだいだ。

2024年09月11日(水)過去の日記を読み返す

過去の日記の好きじゃなかったところ

書き溜めていた(放置していた)過去の日記テキストを、ちょこちょこと取りまとめている。管理しやすくなるよう統合していっている。そして移植中に読み返している。ほほう、ふーん、はあ、といろいろな思いで読んでいた。納得いかないところも少なからずあった。 ​

すごくよいものを書いていた、とは感じられないところがたくさんあった。嫌いなところもあった。表現面でいえば、ところどころ大袈裟すぎて気に喰わなかった。例を挙げれば、「なのだ」「なのである」「なのだから」といった言い回しが過剰だった。「けど」「が」を使ったときの順接・逆説の流れも、微妙におかしくて、引っかかった(そもそも使いすぎだった)。内容面では、根拠の曖昧さと、曖昧なくせに「断言」的に描いてしまう言葉選びの迂闊さが、好きじゃなかった。そして、できればそのふたつは相性が悪いので組み合わせないでほしかった。曖昧で迂闊な話を大袈裟に語られると流石に、「なんで?」ってなる。

​ 断言させたいなら、せめて、それが可能になるくらいには、「外堀り」を固めてほしかった。主語の範囲が広すぎて、狙っていないところにまで侮蔑や否定が届いてしまう問題が、たとえば起こりうるけれど、逆にいえば、範囲をしっかり限定しておけば(背景や目的をしっかり設定しておけば)、適切な範囲に言説が向くようコントロールはできるはずである。少なくとも、ある程度は可能だろう。確定的じゃないが、といったエクスキューズだって、言い回ししだいでいくらでもくっつけられる。昔の日記は、そのへんの見極めが甘かった。言葉足らずだった。 ​

けどまあ、そもそも見えている範囲が狭かっただけ、という気はしなくもない。誰が読んでもだいじょうぶなように書いておかないとダメだ、といった意識がきわめて薄かった。身近な相手にしか目がいってなかったんじゃないかな。ともだち相手に喋っていただけっぽいというか。もしそういう文脈でとらえるなら、ともだち相手になに偉そうに語ってんねん、というツッコミが、それはそれで湧かなくもないのだけど、まあ、反省はしておきたい。

並置された正しさの見方がわからない

​ 語っているうちに思い出してきてが、当時、ぼくにはぼくの「正しさ」(および、それを支持している経験・感覚)があり、相手には相手の「正しさ」(とその背景)があるのだ、っていうことの構造が、いまいちわかっていなかったのだった。複数の正義が並び立っている情景の見つめかたがわからなかった。うまく整理できず、結果として、見渡せる範囲は狭くなっており、「範囲を設定して語らねば」という発想すら、そもそも湧かせられていなかったんだと思う。

2024年09月10日(火)座学は好きなほうだ

教育

もろもろ新たな知見の得られた日だった。基本的には立ち会いの立場で話を聞いた。直接の教育対象ではなかったが、それでも、いろいろと学べるところはあった。同種の解説が、のちのちの自分でも可能になるよう、噛み砕きながらメモをとっていくのは、たいへん楽しかった。好ましい一日だった。

経営やビジネスにかかわる一般論や理想論を聞いた。エピソードと教訓を現実に落としこんでいくための理屈も聞いた。このあたりのフィールドには、脆弱な理論も少なくない。表面的なロジックが小綺麗なだけのものあれば、サンプル数の少ない視野狭窄なセオリーもあるし、遡及的にはそう見えるだけの印象論が大手を振っていることも多数あるようである。玉石混淆だ。

もっともらしく見えていた理屈の足場が、あっさり崩される場面を見るたびに、疑念は増していった。警戒するようになった。とはいえ、そのぶん、ぜんぶがぜんぶがダメなものでもない、という事態への理解も深まっていったと思う。少なくとも、仮説や参考としてならいくらでも活かしようがあるな、ということには気づけた。そもそも、経営やビジネスが、「理論の正しさ」「正しい行動」にかまけるためのものでもない、ということも理解した。