世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年7月8日(火)たとえば信頼ベースの世界観

信頼したい欲がベース

なんというか、「信頼したい」欲求がある。支え合う、背を預ける、頼る、みたいな言葉づかいの背後に置きやすい欲かなとも思う。チームワークとかコンビネーションとか連携みたいな概念のもとでの「活躍」を、志したい。そういった勝ちかた、というか立ちかたが、あるんだろうと信じたい。ひとと楽しくやりたいとか仲良くやりたいとか関連事項として言い始めたくなるところもあるのだけど、それだけでもない。そこは本質じゃない(と思ったけど、本質に近い可能性も、まあ、なくもなさそうか)。

連携とか支援とかを主軸にした協働体制のようなものに、美と愛を感じる。たぶん善も感じている。支配とか命令によるやつは、なんかちょっと違うんだよな~。じゃっかんズレる。近しい位置関係にあるぶん、余計に忌避感を覚えているところさえありそうである。あんまり近寄らないでほしい。ときどき、必要に応じてエッセンスだけ取り入れさせてもらえたら、ありがたい。活用できる要素や性能があるのもわかるため、そこは認めたうえで、ときどき貸してもらったりしつつも、基本は、敬して遠ざけたい。

あえて人を同じとみなさない組織

他人はどこまでいっても自分じゃないので、根本的にというか究極的には、自分と同じように他人をあつかう理由は、なさそうかな、って思っている。同様だと見做す必然性はない。だからこそ、どうするか。同じじゃないからこそむしろ同じとしてみせる。敬意をはらう。尊重する。そういう意志が好きなので、そうじゃない意志に軸足が置かれた組織は、苦手なのかも。少なくとも環境としては相性悪いのかも。仕事できるできないの問題ではなく、そういった観点のもとで、噛み合いの悪さを理解できるようになってきたところは、たぶんある。

2025年7月7日(月)歳を取っても称賛

褒めづらい、褒めづらくない

精神的にも身体的にも、あるいは成果的にも、けつまずくことがどうしても増えてしまったため、無邪気に「前向きな話」を言い放てなくなったところもなくはない。少なくとも、検証はするようになった。若いころはもっと気軽に称賛も応援もしていた。けど、そうも言っていられない場面も増え、じゃっかん、ためらうようにもなっている。たとえばだけど、余命数時間くらいの人間の、そのひとの今後を、シンプルに応援してよいのか、たしかに迷う。ただ、遠慮なんかせず、応援したってよいような気も、しなくはない。むしろ応援すべきだとすら思ったりする。もちろん、わかりやすい正解はないんだろう。こうして言葉上だけで問うてみせるなら、こうしたほうが絶対よい!!!っていう乱暴な結論も出せるかもしれないが、実際の場面に適用するてなったら、それだけの問題でも、きっとない。いろいろなケースがある。適する言葉も態度も一様ではない。

一周して最近はまたやや前向きな気分になっているのだけど、つらくて後ろ向きだった時期も(しかもそれも最近)確実にあったから、そのあいだにしっかり立って、都合よく過去を捨て去るようなこともせず、いまの自分に言えることを、ちゃんと、言っていきたい。そんなふうには思う。それが、若い頃に、理想像のひとつとして描いていた、いくつになったって人生や世界を前向きにとらえようとする言葉であるなら、たいへんありがたい。そういうふうに(いまだに)(運よく)繋がっていてくれるなら、そんなにうれしいことはない。今後どちらに振れるかも、ほんとうにわからないのだが、前向きを望み気分みたいなものは、ちょっとだけでも、ちょっとずつでも、生き延びさせていきたい。

勘違い称賛を叫びたくない(叫んだっていいとしたい)

いくら世界を前向きに捉えて「素敵だ」と叫んだところで、あるいは、すごいなあと思ったひとに「あなたはすごい」と言ったところで、妥当な評価かどうかはわからない。勘違いや筋違いも当然ありえて、怖い。そんなこんなで、称賛を、軋ませるようになった。言いづらくしているのが自分でもわかる。しかし、わざわざ自分の手でそうしているのは、さすがに人生の無駄打ちっぽいんじゃないか、と思うところはあった。抑圧させたいわけじゃない。打破できるならそうしたい。

「この歳でとにかく前向きな解釈を持とうとするスタンス、アリなんすかね~」くらいのことは、考えてしまうことがある。別に考えたっていい気はする。時間の無駄とも思わない。けど、わざわざ軋みを感じに行くようなことでもないのかもね、と思いたかったりはする。せっかくの前向きさを、みずから抑圧し、手放そうとしているなら、なんとかやりくりしてみせたい。

2025年7月6日(日)好きな角度は勝手に使う

ぐるぐるしながらも足は止めない

書きたいエピソード、描き出したい思考が、ちゃんとあっても、そうそう思い通りにはいかない。ちゃんとした言葉になってくれない。構造化もできない。構成も整わない。話としていまいちなまま。ちょっとずつ小出しにしながら、調節し、やりくりし、クオリティは問うことなく、まずは、なんとか完成までもっていくくらいしかできない。せめて形にはしてみせたい。

問題の周辺をぐるぐるするのがなぜか好き、というか、考えごとをしようとすると、どうしてもそういった挙動を取ってしまいがちなので、「これはもう逃れようのない"ぼくの特性"なんだろう」と、なかば諦め、池の周りをジョギングするみたいに、行けるところからやっていくしかない、って決意は固めた。ぐるぐる回っているだけで本題になかなか近づいていってくれないことも、ただただ嘆いていたって、しょうがない。きっかけが来れば、ふいに、中心に立てることだってある。偶然と奇跡と運命を狙う。試行回数を増やして、確率が低くても、そうなるように、くわだてる。

言葉遊びと哲学が(根っこは同じの可能性アリ)とにかく好きなため、もうそれを織り交ぜちゃうのは、前提というか当然だと思っておきなよ、とは思った。変に「好き」から離れて、うまくやろうとしても、たぶん、うまくいかない。苦手意識を増幅させていったって意味がない。立ち止まることなく進めていくための燃料にだってときにはなってくれるだろう。潜んでいた"こだわり"を呼び覚ます触媒にだってなってくれるかもしれない。好きだけじゃやっていけないことだってもちろんあるわけだけど、最初から手放すことを前提にしているのも、意味はわからない。変形させたり変質させたりして混ぜこむ狡猾さだってあってよい。そういう手立てだって、ヘンに遠慮せず、座右に携えながら、できる打ち手を探していけばよいのだと思う。

2025年7月5日(土)最初に思いつくようなものは、ぜんぶ出して、捨てて、その奥底

意外となにか感じている

ぼんやり自覚しているより、実は、自分は、いろんなことを感じている、いろんなことに気づいている、いろんなことを思いついている。自分の感性や知性を軽んじなくてよい。むしろ、自分でも驚くほど深く信頼し、手が届かないくらいの、こころの奥底まで、手を伸ばしてしまえばよい。おもしろいなにかがきっとある。種が見つかる。そして、そのためには、これ以上ないほどまでに、頭を働かせて、ぎゅぎゅっと絞っていく必要があるみたいである。典型とか形式とか常識とかを、すっかり流しきってみせ、「もうなにもないよ~」ってなるところまでたどりついてからが、始まり。あるいはチャンスタイムだ。

そういった構造があると見て取るようにはなったので(そういう構造があるんだと信じるようにはなったので)、「カラカラになるまで、まず、あたまの中にあるものを吐き出し続ける」という行為をやらないのは、"サボり"あつかいになった。少なくとも、見つけるチャンスを逃しているのは間違いない、と感じるようになった。

サボっていた

昨日も今日もサボっていたのでなんとかはしたい。考えたい、思い出したい、描き出したい話題がいま、いくつかあって、そこを、いったんカラカラにしたい。したほうがいい。それに準じて身体を動かすくらいはしてみせたい。たとえば断片的なメモを書き残し続けるくらいはしておきたい。

2025年7月4日(金)静かに随想を書く場所

思いつきの随想だけ

「今日はこんな作品に触れました」とか、「今日はこんな出来事がありました」とか、「今日はこういう一日にしたい」とか、「今日のこんな頑張りを褒めてあげよう」とか、いろいろなことをいろいろなところに、書き分ける形にはしてみた。結果、思索とか随想みたいなことしか、このはてなブログには書くことがなくなってきて、逆に、気持ちよく書けるようになった。迷いが減った。自然体になった。おもしろいものが書けたかとか、ひとに読まれなきゃダメとか、そういった欲も、減った気はする。淡々と書き出す空気になった(書く場所が多いせいで、いちいち、場所ごとに、気にしていられなくなった)。文章の質(と、その向上)のようなことを考えたら、よいことばかりでもないかもしれないが、気分は悪くない。それに、ほんとうに「質」を気にしたいなら、クオリティやリーダビリティ、「読み手側が感じる価値を強く意識した文章を書く場所」を、あらためて作ればいいだけな気もするし。

2025年7月3日(木)記憶コントロール可否

思い出はコントロールできなそうだった

どんなふうに書き残したり決心や覚悟したりすれば、記憶に爪痕を残しておくことができるのかは、ついぞわからないままだった。結論めいた書きかたが許されるほど人生の後半でもないけれど、「忘れずに済む方法」は、数十年たっても、いまいちピンと来ていない。大切だった出来事も忘れている。変なことは憶えている。自在にコントロールできた気は一ミリもしない。

単語の暗記をコントロールできないと断ずるのはちょっと

といった、思い出のコントロール不能さの問題を、「暗記できない問題」と(暗記的な勉強法に対する、やりかたがわからない、実際に憶えられない、価値をあんまり感じない、といった問題と)、混同させている気は、しなくもないな、って思った。

「思い出がコントロールできないんだから、英単語を覚えるのだって、どうせ無理だよ」みたいな形で、やる前から、うまいこと断念させる方向に(都合よく正当化してサボらせる方向に)、問題を捻じ曲げている気配は、ちょっとある。