世界は称賛に値する

日記を書きます

日報日記の9月28日木曜日

業務日報と日記を混ぜる

業務日報と日記を兼ねたものも書いていくようにしたい。それによって業務に関する記憶の定着率を高められることを期待した。また、業務の文章と日記の文章をうまく重ね合わせることで執筆時間の縮小も狙えたらよいなとも考えた。時間配分を見直して勉強時間に回したほうがよい最近である。時間配分とか言ってないで普通に勉強しろよというツッコミは当然あるが。という意味では勉強記録を日記として書くんでもよい。というか前にも似たようなことを書いたな。結局のところ、日記というか文章を書くのが楽しすぎて油断するとすぐ流されてしまい、耽溺しているので、なんとかせねば、と再度あせっただけの話だ。苦肉の策の話だ。

判断ミスを引き起こさない分母の底上げ

現職では(減ってはきたけれど)まだまだ判断ミスがある。前提と基準、権限と承認の経路、情報収集とリスク管理、それぞれに対する理解の浅さが難点として挙げられがちかな。まだまだ理解のおよんでいない領域がある。結果として、対応が遅くなり、確認も遅くなり、措置もぼんやりしたものになっている。

このあたりを「文章」によって改善したい感じだ。経験したことをあとからあとから忘れていっているとまで言う気はないけれど、少しずつ零れ落ちていっているのは間違いない。それを"振り返って言葉にする"ことが食い止めてくれる範囲はあるだろう。記憶から(知識から)「文化」「姿勢」「指針」といったものを抽出していくべきなんだろうとは思う。記憶の定着率の上昇から"空気感"の掌握率の上昇も期待したいと言えるかな。

単語ではなく文章で

キーワードをリストにして記録を残すのではなく、意識して「文章」という形状を使って書き残すことの重要性を最近は感じている。接続詞、順番、論理、主題、ネットワーク、流れ、などがキモになってくるので、キーワードの羅列はやめたほうがよい、という判断だ。それはキーワードの羅列じゃ残せないよと思った形だ。キーワードを羅列しておくくらいの業務日報は書いたこともあったが、そこであえて「文章」を選ぶことの効果もまた、見直されてよいと感じる。そこでの頭の働きの違いを考えてみてもよい。

断言優先の9月27日水曜日

強弱にこだわっているひまがあるなら

「とても」「かなり」「少し」「やや」「ちょっと」とかの副詞の乱用を避けていると数日前の日記で書いた。

meltylove.hatenadiary.com

こういった気持ちの強弱は、別に、欠けることなく伝えなければいけないものではない(伝えたいと強く感じられたときにのみ使うと決めて、減り張りをつけたほうが、きっとむしろ伝わりやすくなる)と考えた結果だ。けれどそのぶん、正確性というか、精密性というか、ほんとうにしっかりと自分の心に問いかけたときの答えは、描けなくなる、んじゃないだろうか。省かれてしまうのは間違いないはずだ。なら、おのれの心の記録としてはよくないのでは?おのれの心を把握するための認識力を鍛える機会をおのずから手放しちゃっていることになるのでは?とも考えた。

暫定的には、そんな強弱にこだわるより、その時間で、もっとやれることがあるんではないか、というのが結論だ。ある気持ちの強弱に目を向けて、それを残すかどうか迷っている暇があるなら、むしろ、別の一文、解説なり、補助線なり、別枠なり、新たなスポットライトになってくれるであろう、新たな一文を、その横に置くかどうか検討していたほうが、効果的なんでないか、と思ったのだった。

ぼくがそれを"どれくらい"嫌いか、その強弱を副詞で詳細に書いてみせるくらいなら、まずは「嫌い」と言い切ってしまって、そのあとに、「ニュアンス・強弱」の理由や歴史の薫る一文を、置くことで、単なる強弱の話などよりよほどしっかりしたなにかが、伝えられるんじゃないの、と考えた次第だ。そしてきっと、その追加の一文でより多くのことを伝えることは可能だろう。だったら優先順位はそっちが先じゃない?って思った。いつだって時間は限られているんだし、対処すべき問い・答えの数まで検証したほうがよいよ~、と思った感じである。

機嫌由来の9月26日火曜日

火曜日

不機嫌っぽいなと感じやすい相手が昨今の仕事まわりにはいるわけだが、時間の割合でいえば、不機嫌じゃなかった時間のほうが多いはずである。が、不機嫌時の被害が甚大なため割合によってそれを許容することは無理だった。稀だろうと嫌なものは嫌、ってなった。数日前まではそこそこの不機嫌がうかがえ、昨日今日はなんとなく温和な風情が流れていたが、しかし、さすがにそろそろ受け入れがたい、と思った次第だ。まあよいかとは流しづらくなってきた。

機嫌の波がある。寄せては返すこの波の中、不機嫌側の波から被害を受けるたびに、少しずつ、精神の反発的な"張り"が強くなってきている。防衛機構の動きがよくなってきている。温和ならそれに越したことはないし、ありがたい。が、なんにせよ、どんどん、評価は下がっていくものなのだな、と、むしろ今回はおもしろく認識したと言ってよい。おのれの胸のうちを眺めて、なるほどねえ、って思った。

しかし、「不機嫌な上司が嫌だ~」という話をこんなに継続して書き続けてしまうとはと驚かされている。こんなこともあるのかと自分に対して驚いている。いままであまり経験してこなかった事例と言ってよい。これまでいまのような職場を経験したことがなかったのだから、"これまでにない"状態になるのはまったくおかしくないが、それでも意外ではあった。このあたりの日記をあとで読み返したときにも驚かされそうである。流石にそればかり気にしすぎだぞとも言いたくなりそうだけど。

文章としておもしろいかもあやしいしな~。つまらない文章だと判定される確率は高めだろう。愚痴っぽい話は遠ざけられがちだし。さらに言うなら書く側としてのつまらなさもなくはないし。同じことばかり書いている状態はそもそもあんまり好きじゃない。飽きる。とはいえ、つまらなさ一辺倒というわけでもなく、おもしろさもなくはない。特に、情動に振り回されてぜんぜん整理できないところは、なんだかんだおもしろい。混線するあまり辻褄合わせに苦心させられるのも愉快だ。難しいのも嫌いじゃない。といったつまらなさとおもしろさの混ぜ合わせにはなっていて、なんとも言えない状態だ。いずれにせよ、こんな継続して書き続けてなくてよいんじゃないかと考えることはある。でも書いちゃうね。耐えるために書かざるをえないみたいな精神はきっとあるんだろう。

このあたり、軽々しく言語化していると、ほんとうに「つらくて今は文章に逃げています!!!」みたいな空気が出てしまって、嫌だな~。たぶんそこまでではないからだ。言葉を繰り始めたときに、目がなぜかそちらを向こうとする強制力はたしかに感じるし、書いたら書いたで、解消的な効果があるのもわかるのだけど、でもしかし、このひどい傷口をなんとかしたい!ほどの気持ちでは書いていないというか(比喩あってんのか)。いずれにせよめっちゃバランスがムズい。このひと嫌いです!!!ってあんまり言ってこなかったせいなんだろうかとは考えた。免疫がないせいでの過剰防衛みたいなところはある気もする。

中途半端な9月25日月曜日

中途半端な分量の文章

一行から二行くらいの短文に唸らせられることは多い。たとえば短歌や俳句、キャッチコピーが見せてくれる切れ味にはよく驚かされている。想像力への刺激もすばらしい。同じくらい、数ページに渡った随想文に魅せられていることも多いかな。構成がよい、雰囲気もよい、ってなっていたりする。

比べると、その中間くらいの微妙な量の文章のかたまりに惹かれることが少ないかなと今回思った。いわゆる中途半端ってことなんだろうか。たしかに短文よりは切れ味が鈍りそうである。ほどよい随想文ほど素敵な雰囲気も作り出せないのかもしれない。いまこうして書いている文章を参考にして言うなら、"問題提起"だけで終わってしまっているのかもしれない。詰める作業・答える作業をサボったことになりやすい(サボった思考がたどりつきやすい)文章の持つ傾向なのかもしれないなとは思った。そのせいではずれが多くて印象が悪くなっているというか。人は皆、ひとことでぱっと言うか、言えるだけ言いたいことを言い切るか、そのいずれかを好みやすいのだ、みたいなところもまた、あるのかもしれないが。

意志強弱の9月24日日曜日

強弱を削る

最近「かなり」「とても」「非常に」「極めて」「あんまり」「やや」「ちょっと」といった"強弱にかかわる副詞"の乱用を控えている。なにがなんでもすべて、強弱まで、精密に描いたほうがよいということでもないみたいだ、と感じるようになった結果だ。それぞれを見比べてみて、ここでしっかりとこの強弱を伝えたところで、たぶん、"読み手が受け取ってくれるであろう意味合い"は変わらず、それどころかむしろ、削ることによって読みやすさが増して、そもそもとなる"意味合いを受け取ってくれる確率"を高められるんじゃないか、と推察するようになった結果でもある。

「少し」と書いておかないと真っ直ぐそう思ってしまうことになってしまうじゃん、「強く」と書いておかないとほとばしる勢いを感じさせられないじゃん、と思える場面はもちろんある。実際にそう思えたときには、ちゃんと、そういった言葉を置くようにしている。リズム、見た目、手癖、で置いているときだけ差し控えている。まあその中でいうなら「リズム」を優先することは少しあるけれど。といった前文のように、「少しはある」という「強弱を伝える」ところに文章の目的があるときにも、当然、置くようにしているけれど。

心を見る粒度(と、ことばの粒度)

おのれの胸のうちを見つめるときの粒度は細かいほうがよい。だから、ここで省略すると言っている”強弱”についても、できれば削らずに、繊細な言葉にしておいたほうがよいのではないか、という問いも思い浮かぶ。言葉にすることで見つめるところにようやく辿りつけるということもあるし。

完全に"ひとに読ませる"ために書かれた文章なら読み手側に重心をかけるのもわかるが、しかし、ここで書いている日記は、公開してはいるけど"ひとに読ませる"ためのものと言い切ってよいかは微妙な文章だ。日記である。それなら、読みづらかろうと(逆に書き捨てるくらいの勢いで)ただただ細かく認識していく。余計な、無駄な、分析に思えたところにだって突っこんでいく。といったやりかたもあってよい。ここはまあ難しいところだ。正直、気分とノリと勢いの問題だと感じる。定期的に調整する案件としておく。

補助動詞も削る

似たところだと、「した」⇒「してしまった」「してみた」「してみせた」「してあげた」といった、ニュアンスを加える補助動詞の乱用も控えている。そのニュアンスがノイズになる可能性、そのニュアンスが読みづらさにつながり読まれなくなる可能性、を踏まえ、取捨選択しているつもりだ。少なくとも選択したいとは思っている。

世界目処の9月23日土曜日

世界

『さよならの言い方なんて知らない』の8巻を少し前に読んで、「生きる意味」に向けた問いかけ(なぜ生きるのか・なんのために生きるのか)に、安直な裁定を下してしまっているの、ほんとうによくない気がするなあ、と反省したが、ブギーポップシリーズ最新刊『ブギーポップは呪われる』を読んで、「世界」にも同じことをしているなと反省した。だいぶ"わかったつもり"になっている。こんなところだろうと軽々しく裁定を下し、距離すら置いてしまっている(しばらくは放置でよいかと思って油断している)。

いろいろなひとが、たとえば身近なひとが、あるいは権威のあるひとが、なにやら「世界」に対して言っていたことを間に受けて、完全無欠の唯一解は出せないにせよ、だいたいここからここまでの範囲に答えがあるんでしょう、といった目処はつけてしまっている。少なくとも"あたり"はつけられると感じていると思う。

ひとつの例として「セカイ系」に関する言論などが思い浮かんだ。セカイ系という題材を取りあげて、ここでは「世界」というものがこういうふうに考えられてるけれど〜、なんてふうに語られているのを見てきた。が、そういったときの「世界」もまた、しょせんは一案に過ぎないというか、その問題に沿うように形成されたひとつの例示的な定義に過ぎない。

さんざっぱら「世界」についての言論を耳にしてきたことで、その回数だけを頼りに、理解できている広さや深さを勝手に決めつけてしまっている。そういう言いかたもできる気はする。いっぱい聞いたので幅広く理解できている、たくさん聞いたから奥深く理解できている、と、謎の楽観を抱き、さらには悦に浸っていそうな気配すらある。

目処

目処ならつけられる、当たりならつけられる、といったところに、なんというか、謎の光明を見すぎなんじゃないのと思った。死ぬほど絡み合っていて、人間が理解しきれるかもわからないような問題に出くわしたときに、その難問に対し、"完全な回答"を返すことはたしかに無理そうだと思ったとしても、同じくらいの勢いで、答えはあっちのほうなんじゃないか、このあたりに答えがあるみたいだよ、と指さすくらいはできそうだと思っているなと気がついたのだった。そのくらいなら"できる"と感じてしまいそうだし、それが「できる」のであればつまり「この問題に対応できる」のだ、と認識も繋げてしまいそうである。

こういったところにある傲慢さというか、極めて安易な繋げかたとそれを許す甘えというか、期待にただ踊らされてしまっている楽観的な精神って、あやうそうだな、と思った次第であった。もちろんほんとうに「目処」とか「範囲」で答えるしかない問題だってあるんだとは思う。数学の問題で解として一定の範囲を示す「式」しか返せないような問いがあるのと同じで、それと似たような問題が、この具体的な世界にもあるんだろう。だからって、それを無邪気に転用して、答えがありそうなほうを"指さし"できていれば答えたことになるよ、と学習するのは違うじゃん、と思った今回であった。

「生きる意味」「世界」に安易な目を向けていることがこの文章の起点だったのだけど、むしろ、そういう目を向けることを可能にしている「目処」や「あたり」という概念が怖くなってきた。

ブギーポップは呪われる (電撃文庫)