世界は称賛に値する

日記を書きます

2026年07月13日(月)物真似プロンプトでモード切替

物真似でモードを呼び寄せる

ひとさまの所作を物真似していくことによって、やり方や扱い方がつかめてくることはある。トレースする。模倣する。そうやって、頭の働きを、ひとつの方向に、馴らしていく。そのときそのとき必要な「考え」(の目的)のために、新しいモードを呼び寄せようと、雨乞いみたいに、物真似で踊る。

昨今の生成AIに「プロンプト」をあたえるという挙動が、これと似た感じなのかも、と少し思った。いま、ここでは、どういうルールのもと、あたまを働かせていくべきなのか。どういうふうに尋ねるか、そして、どういうふうに答えてほしいか。水準はどのくらいにしておくか。注意点はどこなのか。絶対視するべき規則はなににするか。どういう気分とどういうスタンスを優先していいか。どういう印象が存在すると仮定しておくか。そうやって、なんとなくの「モード」を、明瞭側に切り替えさせていく。

日記に合わせたモード、ブックレビューのためのモード、調査や検討に都合のよいモードなどを、プロンプト設定みたいなものによって調整していけてるんじゃないかと思う。逆に、ひとさまが、自分の思考や感覚に対し、どういう「プロンプト」をあたえるかを見て取って、その部分を真似ている感じもあるかも。

2026年07月12日(日)好きなものも雑にあつかわれる

思考実験ていねいに

たとえばぼくは哲学がとても好きなので、哲学の文脈上の概念や思考実験が、乱雑にあつかわれているのを見ると、まあまあ、いらつく。トロッコ問題でもスワンプマンでもなんでもいいけれど、たしかにキャッチーに聞こえるネタはあって、表面や骨組みだけざっくりと引用されていることも少なくない。ぼんやりと引用しておいて、「そんなヒドイこと考えるなんてサイテー」とか言われているのを見かけたりもする。そんな思考停止みたいな所作さえ見かける。

おのおのの大好きがぶつかる

こういう、「大好きなものなんだから、それをそんな雑な扱いしないでくれよ~」っていうものを、それぞれが、それなりにかかえているはずだから、ひととひとのあいだで見解がぶつかり合って諍うことさえあるのは、そりゃ避けられないよな、とは思った。激突必至だ。テキトーなことを(無頓着に、無自覚に)言ってしまっていて、誰かしらは怒らせる。別にそれがダメとかじゃなくて、怒らせるのは怒らせる。怒らないでくれと言ったところであんまり意味はない。

つっこまれたら姿勢は正す

軽口とか雑談で、何かしらに対して雑なことを言ってしまっているシーンはとうぜんあると思うけど、そこで、誰かに、「それってほんとうはそういうやつじゃないんですよ」と言われたら、姿勢を正してしっかり話を聞きたいなとは思う。ここで茶化すタイプがたぶん最も好きじゃない。誰もがなにかに「真剣み」をもっているはずで、そこにおふざけを持ちこまないスタンスはずっとある(あるつもりだけど、できていなかったときがあれば、すいません)。

2026年07月11日(土)醜さと向き合ったら典型的イイ話では終わらない

まじめに向き合え

なんとなくイイ話で終わらせる。誰にも嫌われないような、当たり障りのない、類型的な前向きさに寄りかかりながら、なあなあで終わらせる。真剣味のない甘い振る舞いに見えて、嫌いだ、みたいなことを数日前に考えていた。もっとまじめに向き合ってほしい、もっと真剣に考えてほしい、聞き流すみたいにしないでほしい、というやつだ。

そういうのは、各個人のおのれ自身に対してもそうしてほしい、と思ってしまうところがあるなとも思う。おのれの醜さや闇に目を向けないのが好きじゃない。甘えに見える。ごまかしに見える。そういうものが「なんとなくイイ話」に収束しがちだなと思うところもあるのだった。後ろ暗さや後ろめたさとしっかり向き合ったら、とってつけたような話なんかじゃきっと終わらないに違いない。

というのも、まあ、偏見ではあるのかな、とは思うけど。

醜さや闇としっかり向き合ったあと、見つめ直した「前」が、かならずしも、覚悟や意志の強い輝きにつながる道ではなく、ほんのりとしたやわらかな日常的な暖かさのもとに向かうひとだっているだろう。あとまあ、このあたりの話は、ぜんぶ自戒や反省だ。自分が「なんとなくイイ話」で終わらせようとしてしまっているときに、どんだけ、それに対し、舐めくさった目を向けているか、わかるので、叱っておきたくなったしだいだ。

2026年07月10日(金)そこがくっきり見えてくる世界の解釈律とは距離を置く

ぼんやりさせられる関数で

自分の弱さというか「才能のなさ」みたいなものにつながりそうな予感のする世界解釈には、近寄らんようにしとこ、と無意識に判断していそうな気配が、まあある。そういうのを回避・迂回できる世界の形状をいっつも構築しなおしている。捏造している、ごまかしている、とまでは思わないけれど、なんとなく、ぼんやりしたエリアを作り出して、やりすごしている。

「才能」なんてものは、しょせん幻想で、あるいは、影響力が過大評価されているだけで、実際は、そんなものに振り回されず、どれだけ精力的に行動するか、どれだけ勤勉に努力するか、どれだけ真摯に向き合うか、のほうが大事になってくるから、気にするならそっちを気にしなさいよ(あなたがいま気にしているほうは、見当違いみたいなもんだよ)といった理屈もあるし、なぐさめのようにそれが聞こえることもあるけれど、おそらく真実の一面を言い当ててはいるから、「才能のなさが見えそうなエリアには近寄らない」という無意識の工夫は、あんまり意味がなくて、たぶん、弱腰を呼び寄せているだけの弱点でしかないんじゃないかな、とも考えたりはする。

2026年07月09日(木)単語レベルの不快感

ガキ

単語レベルで不快感を覚えてしまうこともなくはない。そうなるともう、その話の主題も論旨も関係なくなる。話の良し悪しとかじゃなく、聞こえてきた単語に反応して、好き嫌いを決めつけるだけになる。まあ、それはそれとして、襟を正して話を聞くことだってとうぜんできるけど、それはそれとして、ひとこと苦言を呈したくなったりもする。

いま念頭にあるのは「ガキ」かなあ。昔からけっこう苦手な単語だ。むかし自分が言われるのが嫌だったのかもしれない。まあ、子どもに限らず、敬意を払うことなく概念そのものをあたりまえみたいに軽んじるスタンスがきほん苦手だ。そして「ガキ」には、そういった匂いをなかば勝手に嗅ぎとってしまう(そういうニュアンスで使ってないひとも、もちろん、いるんだろうけど、逆にそちらを遮断しがち)。

おとなが、「先に生まれた」「先に大人になった」という、どうにもならないような事実をかさにかけて、子どもを「下」に見る、っていう事態が、好きじゃないんだと思う。そんなどうにもならないものを根拠に偉そうに振る舞う認識の乱暴さが許せない。

単語レベルだとケンカをふっかけやすそう

友人知人の話を聞かされたとき、たとえ異論があったとしても、かならずしもそこで議論を戦わせたくなるわけじゃないのだが、単語レベルの好き嫌いは、逆に、話の内容と関係ないぶん、ひとこと言ってやりたくなるところがあるなあ、って気づいた。付言してみてもいいかなという許しの基準が低い。そのぶんあやうい。

2026年07月08日(水)人間が好き、人生が好き

雑にあつかわないでほしい

大好きな作品が、雑にあつかわれていたら、まあ嫌だ。間違った引用とかされていたらやっぱり気になっちゃう。エピソードや人物像の表面だけを見てどうこう言われていてもうーんってなる。ちゃんと見てほしい。舐めないでほしい。敬意をもってほしい。ゆがんだ評判を撒き散らさないでほしい。

人生とか人間というものを、雑にあつかう手つきも、たぶん、けっこう嫌いだ。この感覚があるかないかの線引きが、人の種類の違いとして、あるのかな、とは少し思う。そして、この文脈でみると、ぼくは、つまり、人生や人間という概念が「大好きな作品」と同じように好きなんだろうなとも思う。