一歩目・二歩目
たいていはいつの間にか考え始めている。最初に見てしまっているところ。次になんとなく向かおうとするところ。一歩目、二歩目にはけっこうクセがある。ここのふたつの所作を見直そうとするだけで、驚かされる挙動がひとつふたつ見つかったりする印象はあるかな。無意識的な自分の着眼ルールに気づくのは楽しい。深め方についての自分の好みをたどるのも楽しい。
たいていはいつの間にか考え始めている。最初に見てしまっているところ。次になんとなく向かおうとするところ。一歩目、二歩目にはけっこうクセがある。ここのふたつの所作を見直そうとするだけで、驚かされる挙動がひとつふたつ見つかったりする印象はあるかな。無意識的な自分の着眼ルールに気づくのは楽しい。深め方についての自分の好みをたどるのも楽しい。
とうぜん最初からなんでもうまくはいかない。練習しないとできないことがある。練習によってちゃんと上達していく。というあたりまえのことが、前提に組みこめていない感じがあるなあ、と気づいた。下手でもよいというか、下手なのはあたりまえなんだから、そのうえで練習しないとダメなんだよね、ってすぐに思えない。練習中するならもうダサいとか情けないとか言ってるヒマなんてなくて、間抜けな姿をあえてさらすくらいじゃないと、っていう気持ちをローディングするのにも時間がかかる。
というこの文章もたいしたことは書けてないなと感じる。あたりまえのことを言っている。ありきたりのことしか言えていない。そのような気持ちはいだいてしまうけれど、でもそれも練習だ。
練習は報われないとダメ(報われないならやる意味ないじゃん)と、こっそり思いこんでいるのも、正直やめてほしい。練習を繰り返していくことで、人生のどこかでは、ゴールっぽいところにたどり着ける、ってたぶんあ頭から決めつけている。死ぬまで練習をくりかえしてそれでも上手くはならずそのまま終わるかもしれん。それもよしと思っておいたほうがよい。
自覚は基本あやしい。むしろたいして当てにならない。見通せていないおのれの長所・短所なんてきっといくらでもあるんだろう。自己愛が強すぎるがゆえにレンズが歪んで盲点になっているケースだってとうぜんある。自己欺瞞の可能性は無限大だ。逆にというか、だからこそというか、人様の判断を当てにしたほうが、妥当なことだって、たぶん、少なくはない。「あなたはここが得意だと思ってそうだけど、実際はそうでもない」「あなたは自分のここが悪いところだって思っていそうだけど、むしろそこは素敵なところでしょ」と、人様に言ってもらうことによって、自分に対する、的確で、新しい、価値のある知見が得られることも、たしかに多い。
だから、自己認知に全面的に寄りかかって生きていくのは、危険だ。人様の見解にしたがうくらいのノリで生きたほうが妥当なのかもしれない。ただ、だからといって、他人からの認知になにもかも服従させて生きていくのも違うじゃん、とは思った。
ぼくからは見えづらいおのれ自身の側面があって、人様からなら見通しやすい自分の側面もあって、だからその結果、客観性的なものを優先していきましょうよ、といったテンションで、人の見解に寄りかかって、服従し、生きていくやり方も、たぶん、なしではない。そのほうがいいんじゃないかと感じるシーンもたまにある。
けど、それでも、「ぼくから見えているぼく」が、一番大事なんじゃないかなあ、ってちょっと思った。なにがなんでも一番大事としておくべきなんじゃなかろうか。根本的には否定しない位置に置いちゃっていい気がする。「自分が見ている自分」を大切にできていないと、結局は、自己否定ばかりが走り出すことになって、病んだり腐ったりしていくばかりなんじゃないか、と感じたりしたのだった。自己認知が、たとえ誤りの集合体のようなものであったとしてさえ、その(誤った)自己認知を迷いなく優先しておくべきなんじゃないの?って思う。正しさより(自分に対する)優しさのほうが人生をちゃんと駆動させていってくれそう、というか。
たとえば、想像した「イメージ」の世界だと、浅い・軽い・粗い・緩い・甘いあたりの「差」を、しっかり見分けられているか、正直あやしい。ごっちゃになっている。というか、ごっちゃにしている。個々のあいだにラインを引くための凝視がまったく足りないと感じる。これが具体の世界なら、ごっちゃにしようもないくらい「具体的な方向性の違い」を見て取ることができるのに、そういう繊細な粒度で、想像しようとは、試みられていない。サボりの気配だ。あるいは能力の限界もきっとある。
そのあたりの"ごっちゃ感"が、言葉づかいを粗雑なものにしてしまっている気もするし、あるいは、そういうふうに線引きが曖昧になっていることに対する許容っぷりと寛大さが、いい感じに世界像を優しく楽しくふんわりコーティングしてくれている気も、しなくはない。そういった、言葉に対する「支配されなさ」「抵抗力」「免疫」みたいなものが、文芸や詩情といった領域で、よい感じに作用してくれている可能性もたぶんある。
宣伝も告知もなんもしておらず、読まれる可能性があまりなさそうな場所で、ひっそり書いている日記のほうが、長続きしそうな手触りもなくはない。やっぱり、読まれる可能性があると思うと、読まれることを、無意識に期待してしまっている。まれにもらう「いいね」も今後へのモチベーションに繋げてしまう(次の「いいね」も待ってしまう)。だから、ほそぼそと、やってたほうが、いいんだろう。みたいなことを、思わず口走ってしまいそうにもなるけれど、とはいえそれも、実際は、ケースバイケースだ。というか、別の話になっちゃってる気はする。あと、こういう話をすることによって遠回しに「いいね」をもらおうとしている形として読解されかねないところも怖い。だからってそれを狙ってないわけじゃないところも同じく怖い。
なんとなくやれたこと。ぐうぜんうまくいったこと。自然体というか、無意識、無頓着、無作為で動いた結果が、たとえうまい働きかけになってくれたとしても、実は、なんにもならない。身につきゃしない。
って考えるのは、「なにごともちゃんと考えながら動いてないとなんの意味もない」「だからぼんやり生きてんなよ」みたいな責め苦の話にもなりそうだから、あまり推し進めたくない感じもあるけど、「知」を介したフィードバックを素敵なものと見なそうとする意志も感じられるから、そういう側面で見るなら、好きな言説ともいえる。むずかしいな。
「あたまを使って自分自身に返り戻してあげることで、ぼくらは手ずからその輝きを増していけるんだ」みたく言われたらまあ気持ちいいが、「あたま使ってないなら生きてる意味ないじゃん」って言われたらぜんぜん気持ちよくない。「あたま使う」が実はよくわからん問題もだいぶあるか。相手の身勝手な定義でヘンに振り回されるシーンを想定しちゃう問題もある気はする。
「あたまを使いながら動いたほうが身につく・成長する」みたいなものを、どのへんに位置づけるか、けっこう迷う。素直に受け取ってみたときに「あたまを使ってなかったけどうまくいった」を捨て去っていいのかもわからない。のんべんだらりとなにも考えずに動いていても身についていくものはある気はする。動くときにちゃんと考えておいたほうが成長率みたいなものが上がる手応えもないではない。ここのネットワークを築くのがなんかむずい。