世界は称賛に値する

日記を書きます

2026年06月25日(木)都合の良さで打開案を却下しなくてよい

こうだったらこうなのに(都合よく)

力を振り絞ろうとしていない自分自身をふりかえって、「好きなもののためだったら、もっとがんばれるのに」と思えてきたとき、ツッコミが三つくらいは思い浮かぶ。

  • 「好きなもののためじゃなくてもがんばれよ(とくに仕事の場合は、対価もらってんだから、そのぶんがんばる責任があるだろ)」
  • 「だったらまず好きになる努力をしなよ」
  • 「ほんとうに好きなものを相手取ったらがんばれるのかあやしい」

このあたりのセルフツッコミをくぐらせたのち、都合のいいことばっかり言ってしまってスイマセンと、みずから取りさげる形にはなる。

ただ、こういう、独り合点の却下も、あやうい気はするんだよな~。自分にとって都合がよすぎる解釈が、ちらっと見えただけで、検討すらあきらめてしまうところが、ちょっとある。引き下がってしまう。それもあんまりよくない気もしている。救いの光がほんとうにそちらのほうにあった場合に困るんじゃないのと思う。詰みかねない。寄りかかりすぎは気をつけたほうがよいにせよ、検討くらいはしておいてもよいんじゃなかろうか。現状認識のひとつに加えるくらいはしてみてよい。

耳を閉ざしていなければいいのでは

自分にとって都合がどうこうという内容の問題じゃなく、開き直ってるかどうか(目や耳を閉ざしてるかどうか)みたいな態度やスタンスの問題なのかもなあ、とはいまさら思った。

2026年06月24日(水)全部の話はしていない

一定の話

「一定そう」「一理はある」「ある側面では」「ある種の」みたいな、"その概念すべてではなく、あくまで、そのうちの一部の話だよ"っていうことを、示してくれる言葉が、やっぱり大事だ。使いやすいぞと最近あらためて痛感させられている。そういうふうにしか正確性を担保できない場面がけっこうある。「けっこう」もじゃっかん同じ匂いがあるな。

広義のそれ・狭義のそれとか、かっこ付きのそれとか、そういった手練手管まで動員して、「慣例的なそれそのものとは異なる」ということを示す必要性に、ときどきは直面させられる。読み手側に、下手に思いこまれないよう、調整をはかる。とはいえ、そこの調整が文章の本筋じゃないような気もしてきてはいる。「正確性の分量調整が"人間がする話"の本論ではないだろ」とする言葉遣い勢力の存在は感じる。

2026年06月23日(火)あたりまえのある側面

あたりまえにはしない話

たとえ"あたりまえ"のことでも、というか、"あたりまえ"だと感じてしまっていることだからこそ、結果として、認識がきわめてゆるくなっていることがあるなとは思う。だから、しっかり見つめ直す機会が作れるなら、そのほうがよいんだろうとも、一定思う。一理ある。一種の事実だ。

ただ、その「あたりまえの見つめ直し」ばかりを追いかけはじめると、こんどは、同じところをぐるぐる回る羽目になることもよくあって(見直したあと、そのことを忘れ、またあたりまえだと思いはじめて、また見直す、のループ)、カンタンにはいかないものだなあ、とは思わされる。あと、このループからサクッと逃れる手段のひとつが「記憶力がいい」っぽくて、そこはキビシイなとも思う。

2026年06月22日(月)楽観と傲慢でつらさを舐めていた

だいじょうぶだったから・じゃなかったから

たとえぼくなら弱ってもだいじょうぶだろう。たとえ歳をとっても、病気で身体や精神が弱っても、環境が変わっても、傷つけられても、きっとやれるだろう。といった過去の楽観と傲慢に、昨今になって、反撃を食らっているところも、なくはない。過去のそういう発言や思考を思い返しただけで、ろくでもなかったなあ、とは思わされる。浅はかだったと痛感させられる。

実際そうなってみたときに、思っていた通りほんとうにだいじょうぶであったのであれ、そうなってみたら実はだいじょうぶじゃなかったのであれ、ろくでもない思考だったなとは思う。どっちに転んだかはただの運で、だからまあ、どっちにせよ、テキトーぶっこいてただけではあった。

しかし、いまそう思ってしまっているのも、つまるところは、「実際はだいじょうぶじゃなかった」から、なんだろうか。そうかもなあ。そうじゃないかもだけど。いやでも、「実際にだいじょうぶだった」場合を想像してみると、だいじょうぶだった~合ってた~これでよし~、ってところで話を終わらせてしまってそうだ。まあいいかと思ってしまいそう。この「まあいいか」がいちばんよくない気もする。「結果的に反省できたからよかったね」じゃないんだよなとは思う。

2026年06月21日(日)自信を失わせることがない一点攻め

自信が一番説

しかしなんにしても、そのひとの「自信を失わせる」なにもかもが、もう、よくないんじゃないか、って言ってしまいたくなってきたな。至極まっとうな指摘だから、そして、自分が頑張りきれていないのはたしかだから、ちゃんと向き合って、真摯に受け止めなくちゃ、とか無邪気に思ってしまっていたけれど、それが「自信を失わせる言葉」であったなら、内容なんてぜんぶ無視して、はねのけちゃってもいいのかもしれない。明瞭にそこで線引きしちゃったほうがいいのかもしれない。

適切な指摘か見当違いなツッコミかとか言う側・言われる側の人間が役に立ってるとか稼いでるとか嫌なやつだとか、筋が通ってる通ってないとか、上品下品とか、誇りとか尊厳とか、人としてとか生き物としてどうとか、そういったさまざまな要素が、どんな配分・形状で組み合わされていようとも、それが「自信を失わせる」ものであるなら、そんなのは許さん、っていう、一貫した「弾く基準」があったとしても、けっこううまく回していけるんじゃなかろうか。

2026年06月20日(土)ほんとうに自分といまだ向き合わない

どのパターンもある

窮地におちいり、必死になり、ほんとうに大事なものを守るため、それまで長らく目をそらし続けていた自分自身と、ようやく、向き合う。向き合うことになる。そうして、ひとつ、壁をのりこえる。一皮むけた自分になる。新しい自分、ほんとうに自分と、出会い直す。

みたいな物語はウン百ウン千とあって、実際、これまでいくつも見聞きしてきたから、それに乗っかって、なぜだか、自分もまた、そのようなことはすでに完了しており、一皮むけたつもり、ごまかしているところはないつもり、にもなっていたところがあったのだけど、あらためて気にし始めてみると、けっこうあやしい。あいかわらず、自分の弱さ・醜さからは目をそらしていて、もう「目の向け方」「向き合いか方」すらわからなくなっているところがある気もする。

中年期・老年期になったとしても、そういうものを突破していけるのかは、わからない。したほうがいいのかもわからない。とりあえず、過去が、記憶が、惰性が、邪魔してくる感じはある。もういいじゃんという声は聞こえる。ヘンに逆らいすぎずにやっていったほうがいい説もある。

だからってあっさり諦めてしまうのもやっぱり嫌かなあ、というのが、まあ、この文章の趣旨ではあった。