あるとは限らない
過去の哲学者たちが、だれにも真似できないような鋭い手際で、事態に切りこんで、解体し、腑分けし、「ここではこういうことが起きているのではないか」「この背後にはこういう運動があるのではないか」「こことここがこうつながっているのではないか」と看破してみせたもの。それらをさらに組みあわせ、一歩また先に、鋭い世界解釈を進めてくれるひとが、ときどきいる。
この解釈とこの解釈の組みあわせることによって、こんな新しい光景が繰り広げられる。視座をあぶり出せる。そのうえで、こんな明瞭な説明まで可能になるんだな、って驚かされたりする。その新しさ鋭さにはたしかに舌を巻く。
しかし同時に、そうしてもたらされた驚きによって、そこの理屈を、なかば自動的に信用まで届かせてしまっていることがあるんだよなあ、とは思った。気をつけたいなと思う。
これまで誰も気づけなかった構造に気づき、語ってみせたその歴史的インパクトに、流されるかたちで、心酔や崇拝めいた敬意まで抱かされてしまっている事態が、たまにある。結果として、そこで提示されていた新解釈まで、疑うことなく、受け容れてしまっていたりする。いつの間にか肯定してしまっている。こういう受け止め方はちょっと違うんじゃないかなあ、と思う。
カントとデカルトとキェルケゴールが打ち出した理屈から、あらたな地平や概念を見出し、世界を再解釈してみせるようなことが、かならずしも、真理に向かう道につながるとは限らない。どんなに緻密で丁寧な歩みもまるっきり見当違いの可能性はなくもない。数千年が徒労に終わる可能性はある。とはいえ、それでも、「知の積み上げ」をやっていくほうが「よい」世界につながる確率は高くなるはず、と信じたくはある。一定、そういう信仰は持ちたい。さすがに「知」にそれくらいの希望は持てていないと絶望的すぎる。