世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年09月16日(月)思い出を補強できない

うっすらした記憶でつながる

子どものころ、最寄り駅のそばに、小さなおもちゃ屋が出来た日があって、長らく、行きつけにしていた。ミニ四駆もワタルもBB戦士もファミコンソフトもたくさん買った。クリスマスプレゼントも選んだ。店員のお姉さんとも仲良くなった。お姉さんが(いまとなっては具体的なところをあんまり語れないくらい)不真面目で、なにがしかの物語の中に、けだるそうで万事テキトーなお姉さんが出てくるたびに、あのひとのことを思い出している。こんな責任感のなさそうな社会人おるんか?と、たとえば作品内に対して思ったときに、しかしあんなひともいたしな、って納得させられている。

ただ、この記憶がほんとうのことか、証明するすべはない。おそらく友人らと通っていたのは間違いないから、当時の同級生に話を聞きまくれば、誰かしら憶えている人もいるのかもしれないが、しかし、小学校を卒業したあと、誰かとあのおもちゃ屋の話をした記憶は、ほとんどない。このひとなら覚えているだろうと思えるアテはまったくない(当時、誰と一緒に行っていたかもいまいち定かじゃない)。

こういった「ごくごく私的な記憶(ただし公共性がないわけではない)」が、運よく、ふたたび誰かと繋がってくれるような(多少は繋がりやすくなってくれるような)、そんな空間ってないのかなあ、なさそうな世界だよなあ、と、独りで残念がっているところは、多少ある。

インターネットが普及したときに、ぼくの望んだ光景のひとつがそれだった。が、結局、そこまでは実現してくれなかった。もしインターネットがないままであったなら(そしてインターネット普及以前は)、もっとぼろぼろと記憶がこぼれ落ちていっていたはずではあって、ほんとうに「消え去るのみ」だったのだろうけど、だからって、いまの水準で満足しているわけではない。まだまだ「誰ともつながることなく」消え落ちていっている。物足りない。

あのとき、あの場に、少なくとも、ほかの誰かしらもいたはずで、そういった、途切れかけた思い出の縁が、なんとなくほそぼそと繋がっていってくれるような、ノスタルジー空間を、なんとなく望んでしまうところは、あるのだった。誰からも思い返されることなく消えてしまうにはもったいない。あるいは、ひとりで抱えているだけだと、ほんとうにあの出来事はあったのか?という疑念を晴らすこともできなくて、くやしい。

2024年09月15日(日)なかったことになってほしいわけではない

消えていたはずの記憶

二度と取り戻せない記憶もたくさんあるはずだ。が、消え去るのみであっただろう崖っぷちギリギリの思い出に、思いがけず、手が届くことも、なくはない。すんでのところで救出できるような幸運が、ときにはおとずれてくれる。嬉しい誤算が起こる。なんの気なしに誰かが口にしたフレーズが、たまたま、眠っていた記憶を呼び覚ます刺激になってくれるようなことが、稀にあるのだった。意外なシーンが、突如、脳内に、流れ始めて、ビックリさせられたりする。ふたたび巡り合えたことに感謝もしたくなる。縁を取り戻せた記憶って、ノスタルジックやセンチメンタル的な意味合いも強くて、異様に快かったりもする。

「たしかにそんなことがあった、が、思い出すきっかけもないまま、すっかり忘れてしまいそうだった、しかし、運よく、なんとか思い出せた」、と言えるような、消滅寸前の思い出に、できるだけ手を差し伸べ、彼方に落ちていくのを押しとどめようとする、そんな行動が、まあ好きだ。基本的な姿勢として維持しておきたい気持ちはけっこうあるかな。記憶の線がつなぎなおされた瞬間の気持ちよさったらないし、思い出に浸っているのもやっぱり独特の気持ちよさがある。(適用できるTPOが限られていそうな気もするが)元気ももらえる。といった閉鎖的な快楽の話にはなってしまうだろうとは思いつつ。

ひとさまの(特に同世代のひとの)、意味なくこびりついているだけの「些細な記憶」を引き出すのが好きだ。わりとどうでもよさげな記憶を聞かせてもらって、そんなのあったねえ、って言い合うのは楽しいし、そういった「きっかけ」「記憶への刺激」になってくれることを期待しているところも、たぶんある。

2024年09月14日(土)深掘りすると時間がかかるので

降りていかない

むかし書いていた文章を読んでいると、深掘りが足らん、という気持ちにはなった。せめてもう一段くらいは下に降りられるんじゃないのと言いたくなった。なぜと問うてもうワンステップ先にある理由を模索したり、一貫性や整合性を破綻させる反証をしめしたり、具体的な光景をシミュレートして矛盾する地点を発見したり、いくらでもやりようはあったんじゃないか、って思った。

理屈を説明するとき、一般的には、その理屈が適用できる「シチュエーション」を具体例として挙げて、実際的なところとのすりあわせをしてもらおうと試みたりするけれど、自分の日記文に関していえば、めんどうくさくなって(時間もかかるし)サボりがちである。そんなような怠惰が、上記のような「深いところにいまいち降りていこうとしない」甘さにつながっていったんじゃないかな、とは想像できた。

2024年09月13日(金)省略しすぎ、くどすぎ、バランスの好み

ダークゾーンを照らし出す理屈

職場にまつわる不満はあいかわらず滞っている。上下の波は激しく、消えたことはない。ことばで描き出そうとするたびに感じるが、ゆらめく怨念めいた気持ちの全体像を、明瞭に描き出すのって、ほんとうに難しい。なにかの陰になっていていまだに照らし出せていないところ、一般的な理屈で"代替"して記述してはいるものの実はピンときていないところ、などがある。

ただ、ときどき、暖かくて優しげで的確なことばが、幸運にも、該当エリアまで落ちていってくれることがあって、そんなときには、波紋のような光によって、一瞬だけ、隠れていた思いが見通せたりもする。「そうか、こんな理屈が世の中にあるのなら、自分が感じていたことは、こんなふうに言語化が可能なのでは」、と着想できたりする。

そういう、いまの自分の胸中を運よく照らし出してくれたことば、当てはまってくれたことば、を、記録しておくのもよいなとは思った。時間がたったときに、見失っていることも多い。もったいない。

最近、メモする先を思いの種類によって仕分けたのもあって、「職場に対する不満の見通しをよくしてくれた」ことばの振り分け先も、別途、定めてみてよいんじゃなかろうか、と思った。聞こえのよい(都合のよい)目先の理屈に振り回されそうな気配も正直めちゃくちゃあるが。

論理の距離に過不足ある

昔の自分の日記を読み返して、不快感を発見し、その不快の理由を分析しようとする振る舞いが、謎にぼくの中で流行っている。これも数日前に書いたことだけど、「いまもやってしまっていそうで怖い」ため、「昔の日記になぜそれを感じるか」を見出し、「原因」を明らかにすることによって、「いまはやらずに済んでいる」のだ、と納得したいんだと思う。見つけ出した「原因」をもとに、いまの文章を精査したい。もしくは、発覚した「原因」によって、いまもまだ「やらかして」しまっているのが明らかになったなら、流石に、今後は、その「原因」を正していくことができるだろう、と期待しているんだと思う。

昔の日記・文章を、いまの自分が見直していると、とりあえず、文と文の距離、論理の距離感、みたいなものが、ヘンだ、と思えるところはあった。短すぎて異様にくどくも見える。ときには長すぎて(つながっていると見做せなくて)、飛躍、または断絶や破綻にすら見えた。華麗にジャンプしてみせたような顔つきしているけれど、ぜんぜん手前に落ちているようですけども……、みたいな違和感もあった。総体として、もうちょっと親切に説明してほしいんだけど、とは愚痴りたくなった。

ただ、理屈を説明するときの距離感って、趣味の違いという面もあるというか、どちらかが間違いでどちらかが正しいという話ではないんじゃないか、とも思う。文と文の、飛躍や省略、または、丁寧で精緻なつながり、って、結局は好みの問題に帰結する範囲もあるんじゃなかろうか。と考えた場合、一時的な(今の)目線で、都合よく是非を分けるのも、なんとなく違う気はする。「そうはいっても、一般的な文章指南レベルでいって、説明足りてなかったでしょ」というツッコミの対象範囲内な気も、また、しなくはなかったけれど。

2024年09月12日(木)素敵な解釈を、真実を語る振る舞いだと誤認した

真似して書き始めたが勘違いしていた

一見ではつながってはいないように見えた、ふたつの要素を、見事な手さばきで、華麗につなげてみせる。認識外にあった「パス」を切り拓いて、接続してみせる。そうして、新しい景色をもたらしてくれる。そんなような着眼点の持ち主に、たいへんあこがれていた。そして、それを理解しやすいよう加工して語ってみせる腕前にも魅せられていた。はるか昔のインターネットでは(テキストサイト期からブログ期の最初の頃のホームページでは)、そういった文章を、高い頻度で読ませていただいていた印象だ。

あこがれて、自分も、文章を書き始めた。ただ、ぼくは、そういった文章を読んで、それが「真実」を語る所作であるかのように、誤解したところがあったんだと思う。厳密にいうなら、「真実」というものに関連してくれそうな、ややこしい概念を多用すれば、それだけで上記のようなことが可能になるんだろう、と、(安易にも)勘違いしたんだと思う。そこで語られていたことの性質をきちんと理解することなく、ただ、語り口の外面的な特徴にばかり気を取られて、それをトレースすればよいのだと思いこんでしまった。しかもそこに、(あこがれで盲目的になっていたせいで)「真実」「本質」「神髄」みたいな輝きまで幻視してしまった。

わかりきったようなことを、ちょっと小難しい言い回しで、かっこつけて、偉そうに、賢しらに、語ってみせていたのは、おそらくそのためだったんだろう。と、過去の日記を読み返していて、ちょっと想像させられた。しっかりと検証できるわけじゃないけれど、思い当たるフシはたくさんある。語りかただけ(見た目だけ、しかも劣化版的に)物真似していただけだった。

いまも同じやらかしをしている可能性

ちなみに、いまでも同じことをやらかしてしまっているのではないか、とは思わなくもない。けっこう怖い。実際、そういった要素(表面的なところにばかり終始していて、内容が甘くて薄い、というやらかし)が、皆無、ってこともないだろう。日記を書くときのことばが、ふだん使いのものと違うのは間違いないし。演じているというか、かっこつけて装飾しているところは明らかにある。内容よりそちらに気を取られている面もあると思う。別にそれが良い悪いの話でも本来はないはずだけど、しかし、結果として、「見た目だけ」真似して、そこにある内容を誤解している状態がいまでも続いてしまっているのであれば、流石に嫌かも、とは思ったのだった。真実を語ってみせると躍起になって、小難しい言葉を使えばそれが為せるんだと、そんな誤認を、いまだ、足場にしてしまっていたら、いやだな~、とは思ったしだいだ。

2024年09月11日(水)過去の日記を読み返す

過去の日記の好きじゃなかったところ

書き溜めていた(放置していた)過去の日記テキストを、ちょこちょこと取りまとめている。管理しやすくなるよう統合していっている。そして移植中に読み返している。ほほう、ふーん、はあ、といろいろな思いで読んでいた。納得いかないところも少なからずあった。 ​

すごくよいものを書いていた、とは感じられないところがたくさんあった。嫌いなところもあった。表現面でいえば、ところどころ大袈裟すぎて気に喰わなかった。例を挙げれば、「なのだ」「なのである」「なのだから」といった言い回しが過剰だった。「けど」「が」を使ったときの順接・逆説の流れも、微妙におかしくて、引っかかった(そもそも使いすぎだった)。内容面では、根拠の曖昧さと、曖昧なくせに「断言」的に描いてしまう言葉選びの迂闊さが、好きじゃなかった。そして、できればそのふたつは相性が悪いので組み合わせないでほしかった。曖昧で迂闊な話を大袈裟に語られると流石に、「なんで?」ってなる。

​ 断言させたいなら、せめて、それが可能になるくらいには、「外堀り」を固めてほしかった。主語の範囲が広すぎて、狙っていないところにまで侮蔑や否定が届いてしまう問題が、たとえば起こりうるけれど、逆にいえば、範囲をしっかり限定しておけば(背景や目的をしっかり設定しておけば)、適切な範囲に言説が向くようコントロールはできるはずである。少なくとも、ある程度は可能だろう。確定的じゃないが、といったエクスキューズだって、言い回ししだいでいくらでもくっつけられる。昔の日記は、そのへんの見極めが甘かった。言葉足らずだった。 ​

けどまあ、そもそも見えている範囲が狭かっただけ、という気はしなくもない。誰が読んでもだいじょうぶなように書いておかないとダメだ、といった意識がきわめて薄かった。身近な相手にしか目がいってなかったんじゃないかな。ともだち相手に喋っていただけっぽいというか。もしそういう文脈でとらえるなら、ともだち相手になに偉そうに語ってんねん、というツッコミが、それはそれで湧かなくもないのだけど、まあ、反省はしておきたい。

並置された正しさの見方がわからない

​ 語っているうちに思い出してきてが、当時、ぼくにはぼくの「正しさ」(および、それを支持している経験・感覚)があり、相手には相手の「正しさ」(とその背景)があるのだ、っていうことの構造が、いまいちわかっていなかったのだった。複数の正義が並び立っている情景の見つめかたがわからなかった。うまく整理できず、結果として、見渡せる範囲は狭くなっており、「範囲を設定して語らねば」という発想すら、そもそも湧かせられていなかったんだと思う。