世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年04月26日(金)「思い出す」を一日一回はやります

平和な四月末

穏やかな一週間だった。業務の話、あるいは仕事の話だ。ちなみに「業務」のほうが言葉としては好きである。というか、「仕事」という言葉があんまり好きじゃない。ピンとこない。よくわからん。手掛かりになるかなと語源を調べてみたこともあったが、つかみづらいのは変わらなかった。すべきこと、すること、すごと、しごと、といった意味・音声の変遷によって生まれた単語のようだったが、しかし、それを知ったところで、特にわかりやすくはならなかった。「仕事」を「すべきこと」と短絡する世界観も好きじゃないし。

ただ、まわりまわって「仕事」が「すべきこと」ということばの重力圏にとらえられていく様は(たまに見かけるけど)好きである。仕事って"すべきこと"じゃん、って単純に証明もされいていないイコールで言い切られたら、えー、って思うけど、仕事を丁寧にとらえていくとどうしても「すべきこと」の意味合いから逃れきれないところがあるなあ……、みたいな諦めと潔さまでたどりつくなら、好きである。

思い出す

記憶に関するコツがさまざまに語られる昨今だ。細かいところはともかく、「思い出す」という行動自体が極めて肝心であることは、理解した。「(定期的に)思い出すことこそが、記憶を定着させる」という構造が、理解・知性・成果・勉強、といった物事の根本にあるっぽい。このあたりについて考えたいと思うなら、「思い出す」を起点にすべきなんだろう。じゃないとずっと"芯"を外し続けることになりそうだ。ファールやゴロがいちおう打てているからという理由で満足してしまいそうというか。

ひとつの文章、ひとつの段落、ひとつの記事を読み終えたあとに、あるいは、なんらかの作品に触れたあとに、目を閉じて、いまの体験を思い出そうとしてみる。まるで思い出せない中、それでも、うんうんうなって、なんとか見聞きしたものを取り出そうとしてみる。といった行動を、現状は、ほとんど取ってはいない。が、そういった「間」をはさんだほうがよいんだろう。

ときどきでも、そういう、思い出すための「空白」を作っていくことが、記憶のありかたを一変させてくれるんだろう。一変させてくれるとまで言うと、なかなか大げさな言い回しになるけれど、でも、実際、それくらいの違いが出てきそうだとも思える。「思い出す」行動がせめて一日一回あるかないかで、記憶の形状が異なるものになっていくというか。整えられていくというか。ごくごく自然に振る舞っていたら、「思い出す」アクション、の選択肢なんて、ぜんぜん選ばれないし。