世界は称賛に値する

日記を書きます

期せず相対した4/30日

社会規範を下地にしたコミュニケーション多すぎ

社会規範の脳内侵食度が上がってきたなあとはけっこう感じる。社会に対する依存具合、社会から受ける恩恵の量、などが、昔より大きくなってきてしまったせいだろう、といったふうに考えてみたりもするけれど、ほんとうにそうなんだろうかとも思う。そんな単純なことなのか?認識がやや粗めなんじゃない?とも思う。

最終的には死んでなにもかも御破算なんだし、そもそも誕生の時点では「社会」なんて要素はゼロだったのだし、あと、時代と場所が変わればぜんぜん異なった主義や文化や思想を持つ「社会」があるのは間違いなく、つまり、いまの「社会」が一時的で暫定的なものなのは間違いないのだし、ちょうどタイミングよく足元にあっただけのぬかるみ(現代社会)にずっぽりと足を取られていてもしょうがないじゃん、とは、いちおう考える。そんなもんに侵食され尽くしてたってしょうがないじゃん、というか。

社会性を有する、既定と慣習にまみれた、みんながその通りだと言ってくれるであろう、そういった基準で、物事を見る時間がすっかり増えてしまったなと思う。なんかそういう雰囲気の眼差しで見ている時間が増えた。社会規範の脳内侵食度が上がってしまった結果だと感じる。混乱や不安がそこから来ていると想像できるタイミングも増えたので、なんとか、そこから脱却できないかな~とは思うし、そのために、どうせ御破算じゃん、とか言いたくはなる。

芸術や文学などが「"既定"や"社会性"から離れ、ぼくやあなたが感じるものを、素直に、端的に、感じる」ことについて、意味や価値を謳ってくれることがあるけれど、まあ、そのあたりに関する話なのかな、とも思う。

ものすごく自然に、「お金が稼げないから」「ミスしたから」「貢献できていないから」「能力が低いから」ダメだ、なんてふうに思考を直結させている瞬間があって、正直、ビビる。そんな単純な繋がりかたじゃないことや、そもそも直結させないでよいかもしれないことも、少なくともそういう可能性は、昔なら、踏まえられていたと思うんだけど、なんか、慣れてきて、癖で、無意識に、すぐに直結させて”見る”ようになってしまった。直結させた形での世界観が、ほかのひとと(特に仕事関連のひととは)話しやすいせい、だと思う。ここはたぶん、かなりの部分、そのせいだろう。

常識とか一般とか紋切り型なイメージを下地にしたコミュニケーションの機会多すぎるよな~、とは思った。