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日記を書きます

毅然裁定の9月29日金曜日

後ろめたい裁定

厳しい査定を伝えるための業務があった。活動結果を精査し、基準に則った評価を下して、それを相手に伝えることの補助業務だ。そのときに、なんというか、御機嫌取りみたいになっていたと思う。反省点・改善点としてあらためて意識している。こういうときにやってしまう"顔色伺い"はほんとうによくない。むろん配慮してもよいが機嫌を気にするのが主目的ではない。そこの優先順位を混同しているのはよくない。互いの認識を確認し、嘘がないことも確認し、現状・課題・信頼を、細かい粒度で理解してもらうことが主目的だ。それがうまくできていなかったなと感じる。失敗まではいかないがぼんやりしていた。御機嫌を意識しすぎるあまり伝達に軋轢が生まれていた。前後不覚のまま進めたせいで後ろめたさすらにじみ出ていた。後ろめたさ問題は厳しい査定を伝えるときにやらかしがちだ。けどこれ、後ろめたいと思っていることがそもそもズレてるんだよな~。過去に指摘されたこともある。自覚もある(詐欺・改竄・隠蔽・いかさま・論点のすり替えといった後ろ暗さがあるなら別だけど、そういうことでもないし)。適正な基準と嘘のない運用で、互いに納得しているのなら、そのうえで、残念ながら基準に達していなかったとしても、その評価を伝えることに、後ろめたさを覚える理由なんてないはずなのだ。にもかかわらず後ろめたく思ってしまうのは、情報収集が足りないせいである。背後関係を鮮明に理解できるくらいの情報をしっかり集めることができていれば、納得して動けるし、後ろめたくはなりにくい。適正な基準か、嘘のない運用か、という問いに迷いなく答えられるくらいの情報が、いまだにない。そりゃ後ろめたくもなるわと思う。情報収集サボんないのが第一だねえと思った。ひとに対して厳しいことをあんまり言いたくないんだよね~という甘えも影響しているので、そこも指摘すべきだが、まずは無理解による浅はかな後ろめたさを消すところから始めたほうがよい。なんにせよ今日は無理解がまだあって、質問に対して、甘えた回答(あのひとがこう言っていたのでこうだと思います的な)が出てしまっていた。繰り返すが改善項目だ。結果として慰めのための小手先の応援になってしまっていたなとも思う。できれば背景の正当性まで把握したうえでの厳しいながらも的確な応援を伝えたかった。

動画の面談的なシーンで、「後ろめたいと話が抽象的になる」という指摘があって、なるほど!ってなった。たしかに今日のフォローじみた声かけは抽象的になっていた。うさんくさかった。

しっかり理解すればまったくうさんくさくない清廉潔白な案件なのに、情報収集や勉強をサボったせいで、自分の中の「うさんくさい」を消しきることができず、しかもその状態で相手と話をしてしまって、むしろ不信感を抱かせてしまうことがある。誤解が誤解を呼ぶというか。哀しいうさんくささが蔓延してしまう機会がある。互いに無駄にモヤモヤさせられる状態だ。まったくよくない。流石にこれは避けたいなと考えた。理解不足でよくやらかしている。甘えもある。情報収集と勉強で避けられそうなのでなんとかしたい。