世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年01月12日(金)引力にひかれた

紋切り型の引力

さんざんこすられてきた手垢のついた「一般的な認識」「ありがちな判断」のあつかいも、一律には定められない。そもそも使えるタイミングと使えないタイミングがあるはずだ。たとえば、自分自身の心を見つめてみるにしても、おのれの、実際の、繊細な、心の動きに、当てはまるタイミングと当てはまらないタイミングがあるはずである。ほんとうに適合しているのか、都度、しっかり見定めたほうがよいのだとは思っている

常套句、慣用句、決まり文句といった「紋切り型の考え」が放つ引力に、気持ちが引っ張られることはある。綺麗な言い回しに魅了されるというか。その結果、気持ちをつかみ損ねることすらある。目測を誤らせられたり、勘違いさせられることすらあったりするだろう。それを回避するための、「紋切り型の考えは不要」という指南さえわりと目立つ印象だ。そういった流れを受けて、「紋切り型の考えばっかり並んでいる文章」って好きじゃないなあ、といった見識を駆動させていることもある。前の日記にも書いた。

そぐうとき

いやでも、とはいえ、"そぐう"ときもあるんだよね、と反省はした。ありきたりだろうがなんだろうが「紋切り型の考え」がハマるときももちろんある。気持ちなんて千差万別で、個別的で、同じ気持ちどこにもなんてないんだから、毎回毎回、言葉を探せばよいのだ(だから常套句なんていらないのだ)、と言ってみせる姿は、至極もっともなものだと感じるが、しかし、だからといって、「紋切り型の考え」がまったく不要ということでもないんじゃなかろうか。活かせるケースもある。「紋切り型の考え」の引力の強さが役に立つこともあると思うし、「紋切り型の考え」の単純さ・浅薄さが、逆に強さに転換される場面だってあると思う。紋切り型だから、ありきたりだから、聞き飽きているから、この考えは採用しませんよ~、なんて言ってあっさり切り捨ててしまうのは、むしろ、思考停止が過ぎるだろう。

浅慮と熟慮が似ている場合

聞きかじりの話と、長い思索のうえにたどりついた境地の話の、違いを見極めるのが、ときに、とても難しい、といった話題の関連項目ではあるんだと思う。そこにある意見の、背景の広さや、背骨の細やかさが、たとえば点検したらぜんぜん違うはずだから、試しに質問でもしてみれば、その回答で、違いを見極めることもできるだろう。けど、ぱっと見で区別するのはきっと難しい。言い回しの機微でその違いを醸し出せるひともいるようだけど、それはそれで、単なる話し手の腕前の問題にはなっちゃうし。うまく対応できるひとの話ばかりしていてもしかたがない。まあ、言葉のニュアンスでそこを調整するだけの手口を解析できるなら、もちろん理解してみたいところではあるんだけど。