世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年01月13日(土)クレヨンで描いた

土曜日

落ち着いた一日。出かける予定もあったのだけど、お子さまのおなかの調子が昨日からよくなくて、延期した。とはいえ、結果として問題なかったようだった。元気に暴れていた。当てははずれたが無理するよりはよい。ここ数日は妙に機嫌がよい気もする。家にこもっていたのでクレヨンに初挑戦した。一歳半の検診だかでおえかきの動きを見られると聞いたので試してみた次第だ。線を引く程度のことはできていた。楽しそうでもあった。そしてクレヨンを食べようとして止める一幕があった。この一幕は今後しばらく続くんだろう。食べてもだいじょうぶと書かれたクレヨンはいちおう買った。

難しく考えすぎ

難しく考えすぎというツッコミはあんまり好きじゃないなと思っている。とはいえオッカムの剃刀という概念はけっこう好きだ。オッカムの剃刀は「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」「必要なしに多くのものを定立してはならない」という指針を示した比喩だ。「ふたつの競合する理論がある場合、よりシンプルなものの方が正しい可能性が高い」といった関連する例も見かけたことがある。つまり、オッカムの剃刀になぞらえた「難しく考えすぎ」は、さすがにアリだろう、と思えるのだった。たしかにゴテゴテと余分な理屈をつぎはぎされても困る。ツッコみたくもなる。

「難しい」を、知力や認識力の枠組みからはずれてしまうもの、と見なしたときに、「複雑すぎる・精緻すぎるせいでとらえきれないもの」「贅肉がつきすぎていてとらえきれないもの」というふたつに区分できるんだろうな、とも思った。細かく計算し、美しさを追求して、根気よく確立した複雑で精緻な芸術品と、とにかく乱雑に肉付けばっかりしていった贅肉のかたまりを、同じように捉えてはダメなんだろうなと考えた形だ。わざわざ書いているのがその証とも言えるけど、正直、混同していることがあると思う。「視界におさめるのが難しいなあ」くらいの気持ちで同じ箱に入れてしまっていることがきっとある。ともすれば「すごい」といった粗雑な判定のもとで並置していることすらないとは言い切れない。この「すごいもの」「すごそうなもの」の見極めのできなさが、世界観を崩しそうというか、つまらないものにしそう、という予感はだいぶあって、なんとか見定められるセンスを普段から有しておきたいとは思っていたりする。