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日記を書きます

2024年01月08日(月)連休が終わった

三連休記述と知性の限界

祝日。成人の日。三連休の最終日。今年は三連休が比較的多めだと聞いた。ほんとうにそうなら、つまり三連休が珍しくないなら、わざわざ強調的に三連休を採りあげる必要はない。というふうにとりあえず思考は巡った。「ほんとうにそうなら」「取りあげる必要はない」のいずれの言い回しにもツッコミどころがあると思うが("ほんとうに多い"ってどういう基準?"必要はない"ってどうやって断言できるの?といった脆弱性が見え隠れする)、まあでも、問いとしてはアリかなと思った。違和感に立ち向かってみるのはおもしろい。実際、週末のたびに「二連休だ」と書いてはいない。書こうと思いつくこともそもそもない。そして、二日続くのは普通で三日続くのが特別だと見なす理由はない(むろんここも、三連のほうが珍しいのはそれはそれで事実なんだから特別視したってよいんじゃないの、というツッコミはあってよい)。ただ、「今日は土曜日だ」「日曜日が終わる」といった単なる曜日記述も書いているときは書いている。普通のことだってもちろん書く。普通だから採りあげないという理屈でもそもそもない。書きたいと感じたことを書くという気持ちの理屈も、目についたものを書くという偶然性や身体性の理屈も、関連してくるだろう。書く気持ちも書かれる言葉も一律のルールのもとにあるものではないなとは思った。

思考溢れる

連想ゲーム的に、想像・理解・納得のネットワークが伸びていくうちに、どんどん混沌とした状態にはなっていく。これ以上ごちゃごちゃになったら"気分的に"耐えられないと感じられてきたところで、紋切り型のそれっぽい締めをもってきて話を終わらせてしまう挙動は、どうしてもある。この「これ以上頭のなかのごちゃごちゃに耐えられない」「ので無理矢理終わらせよう」とするタイミングが、耐久値の上限が、ひとそれぞれの知性の限界の分水嶺になるところ(のひとつ)なのかなとは思った。どこまでブレーキを踏むことなく進んでいくことができるかというチキンレース的な「脳内ごちゃつき胆力」が、思考力に影響しているところもだいぶありそう。