世界は称賛に値する

日記を書きます

釈然ウィザードの5/19金

金曜日

そもそも朝早めに起きてしまう流れが少しずつ出来てきている感じがあるかな。なにかしらの理由で寝られていないだけという可能性もあるけれど。いずれにせよあっさり目が覚める最近だ。ごくごく自然に目が覚めてしまうのであれば短めの睡眠でもよいんだろうか、とは思う。ショートスリーパーといった単語もあるし、誰もが同一の睡眠時間を要するということでもないんだろう。とはいえ、睡眠が短さ問題と寿命が縮む問題って直結するよ、みたいな話もわりと聞くしなあ。そして、自主的に目が覚めたからって睡魔に襲われないわけではぜんぜんない。結局ふつうに眠くなっていたりはする。 いわゆる睡眠に関しての学術的知識をどれくらい信用すればいいんだろう、という問題もときどきは考える。わりと人類の知性には期待していきたいほうなので、学問、研究、実験、などは信頼していきたく思ってもいる。学問、研究、実験といったラベリングだけで信頼するかどうか決める態度がすでに知的ではないというツッコミももちろん(かなり)あるけれど。

頭でっかち

粗雑なツッコミって嫌いである。頭でっかち、理屈っぽい、屁理屈、机上の空論、みたいなことばが、「知性」「学問」といったものをしっかり伴った見解に対して向けられている光景にも、それを感じるので好きじゃない。が、とはいえ、これほんとうに概念をこねくりまわしているだけじゃん、と見て取れるような文章を、自らが書いてしまうこともある。日記を書いているときにも思ったりすることがある。なにかの物事について、紋切り型の意見、一般的な見方、常套句のようなツッコミ、ごく普通の好き嫌い、といった「頭を使ってなさそうな武器」を用いて、くだを巻いている、みたいなときに、たとえばそう感じる。

概念こねくりまわし

ただ、この、概念こねくりまわしているだけ、と、概念を深掘りしてしっかり考えている、の境界線は、微妙だ。自分にとって題材・切り口・理路が、あくまで"物珍しい"か(過去に見たことがあるかどうか、つまり「新鮮みがあるか」)だけで区別している気もするからだ。いや別にそれならそれでよいじゃん、とも思うものの、ひとの意見に対して「頭使ってなさそう~」なんてふうに勝手に"見て取って"おきながら、その根拠となっているのが「いやだってその話、"ぼくにとって"見たことあるやつなので……」だけというのは、さすがによろしくないんじゃないの、と感じる。シンプルに酷い。そしてふつうに判断ミスである。できればしたくない行為だ。

自分にとっての飽きた話

まあでも、自分が書いたものについては、見知った話を、ぐだぐだだらだらと、頭をあんまりちゃんと使わずに、書き連ねているだけ、では?と判定できる(少なくとも、ひとさまがやっているのを見て取るよりは、判定しやすい)と思うので、そこに関しては注視しておきたいかなと思う。とはいっても、そういう時間があったからこそ、行き詰まった溜めの時間があったらこそ、どこかでなにかしらの"突破"ができて、次に行ける、というか、そういった準備期間も必要である、みたいなパターンは、ありうるとも思うのだけど。なので、たとえ自分がそれをしていても、一概に否定はしなくていいんだろうけど。