世界は称賛に値する

日記を書きます

延々対話の9月10日日曜日

言葉が出る

もっとちゃんと説明してくれないとわからないよ、と思ったことはたくさんある。言葉が足りていないぞと感じる状況は幾度となく見てきている。なにかを語る文章を書くというのは、つまりこういう場面でおこなわれていることなんだろうと思った。そういうときの振る舞いと同じだと見なしてよい。

長い文章を書く、ともすれば、本一冊書き上げる、ということがいまだに肌感覚としてわからない。書き切れるわけない、そんなに言葉が出てくるわけない、きっとどこかで詰まる、といった不安を覚える。ちょっとした書きつけくらいが限界だろうとどうしても考える。本1冊書けるひとたちはいったいなんなんだと思っている。

あるおこないが想像・理解できないときに、普段の生活の中で類似する振る舞いを見つけて、そうか、意外に普段から似たようなことをやっていたんだな、と思いたい欲がある。なので探している。それにより理解が進むと思っている。勘違いをそうやって諫めていくことでやれることが増えるとも思っている。

言葉が詰まってなにを言えばよいかわからない。沈黙の時間が流れてしまう。そういった事態に陥って困ったことはたしかにある。突然やってくる謎の無言。謎の思考停止。不安に思う源泉のひとつではある。ただ、"わかってもらうためにしっかり説明しよう"としているときに、説明の角度を変えたり具体例を出したりして、止まらないくらい話していることも、間違いなくある。

言葉が出てくるときと言葉が止まってしまうとき。このふたつは両極端ではないなあとも感じる。少なくとも、話すことがあるから言葉が出てきて、話すことがないから言葉が止まる、といったわかりやすい両極ではない。好きな相手だから言葉が出る、嫌いな相手だと言葉が止まる、とか、そういった整理された両極でもない。なんにせよ「正反対」ではないぞとは感じる。言葉が出てくる要因と、言葉が止まる要因は、それぞれまったく別のところにあって、たとえば「言葉が出る」ほうに近寄りたいと思ったとしても、同じ線上の左右を見回していれば、それが為せるよ、というわけではなさそうだ。

ぼくにとって、話しやすさを決める基準と、話しにくさを決める基準が、違うところにある。めんどうだが、変にスイッチのオン・オフみたいに捉えるより、救いや可能性があるなとも思う。