世界は称賛に値する

日記を書きます

乖離都市の9月11日月曜日

『さよならの言い方なんて知らない』第8巻(河野裕/新潮文庫NEX)

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『さよならの言い方なんて知らない』の新刊8巻を読んだ。ほんっとうにおもしろい。強調したい。ずっと好きだ。5巻くらいの時点で、オールタイムベスト級に好きなシリーズになる、という確信めいた気持ちを抱いて、その後の巻でさらに評価が高まってしまったため、もうなにも言えない状態になっている。ここまで「読めてよかった」と思える作品は珍しい。そして、次巻をはよ読ませてほしい。たいした言葉を残せないくらいの衝撃を受けたが、しかし、この衝撃を感じた日のことは記録しておかねば、と感じ、この文章を書いた。誰かにいま素直に物語を推してよいなら、この作品(このシリーズ)以外思いつけない可能性は高い。

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さよならの言い方なんて知らない。8(新潮文庫nex)

手垢まみれの生きる意味

「生きる意味」はあらためて難問だ。そして、極めて身近だ。いくらでも重要視されてきている。もちろん同じくらい軽視もされてきただろう。無数にこすられてきた話題だ。人類規模の手垢がついている。「生きる意味」について考えようとすると、どうしても、それまでのあつかわれかたの記憶がまとわりついてくる。大切にしすぎる言葉も思い出せる。安易な嘲笑だって頭の中に響いてくる。こうして書いていても、あ〜、このひとまた「生きる意味」について考えちゃってるよ〜、くらいのツッコミは思い浮かぶ。

生きる意味とはなんなのか。生きる意味はどこかにあるのか。といった問いはある。あるのかなとも思う。「そもそもそんなものは問いとして成立していない」とか、「そんなことに統一的な答えなんてないに決まってる」とか、「そういうのは言葉の使いかたがそもそも間違っているだけなんだ」とか、「主観的なものなんだからそんなもん勝手に決めるしかない」とか、「難問すぎて人類の手には負えないよ」とか、いろいろ言えることはあるにせよ、それを、なんだかありふれたものみたいにあつかうのは、う〜ん、やっぱり違うんじゃないの、って感じた。

難しすぎるせいで真っ当には向き合うことができず、しかしとても身近にはある。こういうものって、逆に、舐めがちだ。ここにはそういった雰囲気を感じる。

みんながごちゃごちゃと言っていたこと。なんとなくであつかっていたときの記憶。そういったものは一回ぜんぶ脇に置いて、「生きる意味」に向き合う時間も、あってよい。「人生」とか「幸福」とかも引きずられて出てくるだろうから、そういった事柄についても当然考え直すことになるだろうけど、それもふくめて、常識や通念、狭い範囲の経験を捨てて、触れてみたい。

「生きる意味」とか「自己認識」とか「幸せ」とか「平和」とか、まあ、なんだかんだ、あつかいが雑だ。あらためてそこが気になった。ぼんやりとそこの周囲に大切さや重要さを見出す瞬間はもちろんある。うっすらとながら、ずっとそういった雰囲気を感じていると言ってもよい。にもかかわらず、曖昧かつ勝手な理屈で、舐めている。無意識下の逃避癖で、甘く見ることによってだましだまし安心している、という言いかただってできそうに思える。

人類的な手垢は「生きる意味」を考えさせないほうに持っていこうとする印象だ。だからといってあ天の邪鬼的にそこから距離を置きたいと思っているわけではない。ただまあ、これまでまとわりついてきたか変な重荷を捨てて、素直に手にしてみたら、おもしろそうだし、素敵そうだ、とあらためて思ったのだった。けっこう大事な問いっぽいよね、って言葉すら、いまさらそこ?みたいに思えてしまったりもする。だけどそのツッコミがそもそもいらん、無粋で陳腐なやつじゃん、というか。これまでの人類の残してきた叡智(かのように色付けされたもの)に毒されているんだというか。

「生きる意味」に、めずらしく、気負いのない目を向けることができた。偶然かもしれないが良い機会が得られた。おそらくこれは『さよならの言い方なんて知らない』を読めたことの余韻による。