世界は称賛に値する

日記を書きます

裏切る信憑性3/9木

愚痴

職場の愚痴みたいなものを書こうとしてうまくいかず二回ほど書き直したけどそれでもダメだったので諦めた、というかまあいいやと投げ出した。最近はけっこう職場に対する不満を抱えているとは思う。が、とはいえ不満ばっかりでもないので、”そればかり”といった空気の文章を書いてしまうと、噛み合わなくなってきて、書き直そうって思い始めることになる。そんなこんなで二回も試行錯誤を重ねた次第だった。そもそも最適な分量や比率もわからないしな~。「嫌い度」と「嫌いじゃない度」を両極にしたときの最適値なんて正直自分でもわからん。なんとなく書いていって、ぴったり、いまの心境に合うような文章が書けたときだけ、これでいこうと思えるのかもしれないが、ちょっと神頼みすぎる。神頼みは言いすぎにせよ行き当たりばったりすぎる。ちなみに「嫌い」と「嫌いじゃない」を両極にしてるところは「不満だよ~」ということを強く意識した言葉選びではあるけれども。

愚痴って言葉も使いづらいなと感じる。どこからどこまでの意図または発言を「愚痴」と呼んでいいか迷うのだ。なんかすごい漢字だし。こういう漢字の選びかたって仏教用語っぽいよな~って思って、調べてみたら実際そうであった。莫迦の語源とも言われている言葉らしい。心理に暗く無知なこと。そして、貪欲、瞋恚、愚痴の三つを三毒と呼ぶようである。三毒とはいわば人の心を惑わす根源。極めて根源的なものであるため「言ってもしょうがない」とされていて、それでも時には口にしたくなってしまう、といった情景を「愚痴をこぼす」と呼ぶようになったようだ。その転用が、いまどきの「愚痴」に落ち着いた形である。

機嫌

割合や比率のことは置いておいて、ひとつ気になっているところを挙げておくと、「えらいひとの機嫌を損ねない言い回し」と「正しい言い回し」を混同させてきて、こちらの言いかたに対して、「それは正しくない言いかたである→ゆえにダメなのである」と批難してくるところが、なかなか嫌になってきた。このあたりの構造に気づけたのも最近で、それまでは、単純に自分が間違ったことをしてしまっており、だから、改善するべきも気落ちするべきも自分である、というふうに感じてしまっていたのだけど、最近になってようやく、ぜんぶがぜんぶそうじゃないな?とわかるようになってきた。

正しいやりかたか否かで責められているのわけではなく、えらいひとの機嫌を損ねるやりかたかどうかを基準に(しかし表面的には”仕事として正しくない”という理由をちらつかせながら)責められている、ということに気づく瞬間が増えてきた。もちろん「そういったものも織り交ぜられている」ってだけで、実は自分がすべて正しかった、ということでもないのだけど……。なので見極めがちょっと難しいが……(基本的には自分が間違ってると思いたくないので、油断すると、自分のほうに落ち度がある場合についても正当化しちゃいそうで困る)。しかし、見極めが難しい、とか困っていること自体がそもそもなくてよい問題ではあると思う。