世界は称賛に値する

日記を書きます

がしゃんと繋げた4/24月

出来事と考えごと

出来事を綺麗に描いている文章(日記)には憧れがある。嫉妬心もあるくらいだ。手癖的にも嗜好的にも"考えごと"ばかり書いてしまい、出来事はあんまり書かないところがあるからだ。隣の芝生は青く見える、かもしれないけれど、まあ、やわらかくてやさしさを感じるような静かで丁寧な描写だったりするとなおさらである。例えば小説を書くときのことばに慣れ親しんだりしたら(情景描写の経験は増えるだろうから)世界の具体的側面を描くことが得意になったりするんじゃないかな~、なんて期待したりもする。得意になるまではいかないにせよ、やや気軽に取り組めるくらいにはなりそうというか。現状いだいている"出来事を描く"に対する個人的な印象を挙げるなら、手間がかかる、どこから手をつけてよいかなにを選んでよいか迷う、困難、大変、といったものが並ぶし。

この"出来事を描く"という行為、慣れたほうがやりやすい(ので、そのひとの経験によって手軽さ・大変さが変わってくるよ)、という話なのか、性質的にいずれかがそもそもやりやすいものである(ので、みんな等しくめんどくさかったりする)、という話なのか、ちょっと考えたりした。

接続遊び

手癖や嗜好として"考えごと"ばっかり言葉にしようとしてしまうのって、論理、ないし、因果、が描きたい欲があるから、といったパターンもあるんじゃなかろうか、と書いていてなんとなく思いついた。一文を書いたあとに、そこに対して、論理的に繋がりうる文章、または、因果関係的に繋げられる文章、を書く、ということが、もしや、かなり"気持ちよい"のではなかろうか? 綺麗にがしゃーんと繋がってくれるのが気持ちよい、というかな~。いわば"接続遊び"というか。プラレールやレゴみたいなものというか。