世界は称賛に値する

日記を書きます

1月6日エンパサイジング

平凡

日記(思考風景の描写、出来事の記録)は減らし、その空いた時間で勉強を進めて、勉強した内容を記述する形にしていこう、というようなことを前に書いた。よい判断だと思う。ただ、この「時間を割いて勉強しよう」ということを表明した文章、めちゃくちゃ普通の主張だよなとは思った。切り口が普通というか平凡だ。魅力が少ない。ちょっと奇妙な文章、奇抜な論理、奇天烈な切り口が書きたいなという気持ちはある(普通ではないと思える文章を書きたい欲はある。そのほうが面白くなりやすいという価値観がある。選べるならではあるけれど)。

共感

ただ、ひとの日記を読ませてもらったときに「これを読めてよかった」と思うのって、文章面で魅力があったときだけではないよな、とも思った。なんというか、その文章のなかに見受けられる意志に共感したときなんかにも、これを読めてよかったと思うことがある。わたしはこういう状況にあって、こうしたいと思っているので、こういう行動を取ってみます、という平凡といえばごくごく平凡な宣言を読んで、同じ境遇のひとがいるんだなあ、と思ったり、ぼくもそれをやってみよう、と思い直せたりする。たとえ平凡な話題であっても境遇が近ければ楽しく共感できる。そういうシンクロ的な挙動による文章の意味や価値もありうるよなと思った。新しい視点、新しい思考を示してくれるような、切れ味のよいものでなくても、まあよいか、と思ったのだった。