▼▼描写している対象を基準に文章を分類してみる、って事柄の日記を一昨日書いた。実際は、選別できる手腕だけでなく、種別を見極める眼差し、および、おのおのに如何なる効果や意味があるのかを説明できる理解、を欲しがっている、んだと思う。まあ脳と目と腕は相互に影響しあってたりもして、厳密に順序決めたりはできなさそうだけど、いずれにせよ、取り扱える、対処できる、活用できる、あたりを求めてる。
▼▼理解したがっているものを理解するための初手として「見通しをよくするには」って思って、対策を考えていた。適策としては、物理的な描写だけで四百字埋めた文章と、知覚したものだけで埋めた四百字文章、思考したものだけで埋めた四百字文章、説明だけの四百字文章、等々を、実際に記述してみて、対置し比較して、執筆時や読解時の印象の違和感や共通性をを汲み取っていくのがよいのでは? って考えたりした。野菜の特質を理解するためには野菜だけで調理してみるとよい、で比喩できる想定だ。
▼▼単独で理解を深めても、結局混ぜてしまうならぜんぜん駄目だ──援用/応用/転用ぜんぜんできないからねー、っていう状況は、無論、当然、ありうる。想定しておいたほうがよいだろう。むしろ言葉の性質は明らかに「混ぜたら印象がぜんぜん違う」寄りだと思うので──じゃなかったらいわゆる「文脈」なんて言葉も出てこないと思うけど、でもまあ、単独での味わいの傾向や仕様を理解しておくのも、無意味ではないかと思える。活かせるところは活かせるんじゃないかって想像できる。
▼▼なんて書いて。▼▼前述までの文章で描けたものを振り返ってみて──。
▼▼昨日描いた「文章の七種別」で言うならば、思考を描いた文章、ばかりを使って記述したことになりそう、かな? なんて最初は思った。思ったのだけど、思考を描いた文章ばかりでも、おのおののに多少の雰囲気の差異があるように思えて、思考を描写する文章達も更に細分化できちゃうのかなー? なんて思ったりした。▼▼いや違うかなー。おそらく説明描写と思考描写の境界線が危ういんじゃなかろうか。▼▼概念の一般的な説明と概念のじぶん内での位置づけや展開の説明の違いが似てて混ざる、ってあたり? 七種別の一つに「説明」って付けたの間抜けだったなー。ぜんぶ説明は説明だろ、って言えちゃう……。▼▼誰かが考えたことを描くのとじぶんが考えたことを描くのは、違うけど、描写や説明のしかたは似ちゃう、なんて言葉も浮かんだ。混乱が激しいなあ……。