世界は称賛に値する

日記を書きます

この文章の次に、どの文章を置いてよいのか

▼▼かつて中高生の頃、小説的な文章において「文章X」の次に置ける──置くことに感覚が許可や納得を見せる「文章Y」の条件とは何だろうか、っていう、物語の描写や展開に関する「文章の置きかたの規則や知識や文例」のようなもの、について、わりと深く頭を悩ませてたなー、っていうのを思い出した。▼▼物語の流れや文章の流れにおける「自然な繋げかた」も「ぶった切りかた」も謎スギ……!って嘆いてた。明らかな違いと違いに繋がるであろう約束事が見極められなかった。
▼▼道路に財布が落ちている、って文章を書いて、状況を描写した次に、財布や落とし物に対する思考や行動の描写文を置くのは、わかるしできるし納得いく、けど、財布や落とし物以外のものに話を拡げてゆくのはどうしたらよいのだ、っていう技法について、懊悩しちゃってたのだった。▼▼正解を探しちゃってたな、って印象はだいぶある。
▼▼話や文が進まないよー拡がらないよー止まっちゃうよー、っていう懊悩を解消するために、突然誰かを登場させるか/突然何かを発生させるか、連想的に「多少は関連がある別のこと」を語り手に考えさせてみるか、区切って場面や時間を変えちゃうか、なんてふうなことしか思いつけなくて、結果として、転換が異様に激しくなってたかと思う。
▼▼衝撃的な驚きや事件を繋げてく、ってやりかたしか思いつけてなかった。
▼▼っていう迷い周辺に関して、別に今も完全には解決してないところあるよなー、って意識できて、怖くなった。衝撃的なものばっかり見るんじゃなくて、静寂や繊細をもとに言葉を紡いで、物語や説明を進めていくような文章を、理解し学習できたところは、確かにある。あるけど、出来事と出来事の境目や潮目について、やはり、不理解というか、繋げてよいの? 繋がるの? 流れの切れ目と切れ目の間を近づけていく技は昔より巧みに実践できるようになったけど切れ目はやっぱりあって、繋げちゃってよいと言うなら切れ目を意識させない綺麗な繋ぎかたがあるんだろうけど、結局どうやるの? なんていうような不安が、まだ残ってるのだった。自信満々に振る舞えないなと思う。
▼正解不正解がある問題として捉えるのは駄目だろ──答えを探すなよ、なんてまあまあ踏まえられるようになったくらいかなー、変質したであろう点を挙げるなら……。▼▼まあまあ踏まえとけるようになったならぜんぜん違うでしょー、って言える問題なら、ありがたくて、確かに踏まえられるようになったことで、正解探し始めちゃうような愚行には向かわなくなったんだろうけど、でも、迷っちゃう時は迷っちゃう気配もある。腑に落とせてないっていうか、慌てたりしたら正解探ししちゃいそうだ。▼▼▼▼あとまあ、経験が勝手に改善してくれてないかな、なんて期待もぼんやりはある。結局最近は混乱や困惑に実際に遭遇してないので、過信や慢心を怖れつつも、無自覚な経験則的に体感が勝手に切り替わってないかな、って期待しちゃうのだった。言葉に触れてきた経験量の違いが暗黙知的に違いを発生させてくれてないかな、って期待だ。楽観と怠惰でもあるなあ。