支離滅裂までいかなくても読みようのない文章はある
誰にも読み取りようのない支離滅裂な文章になっているのでは、という可能性を、ときどきは考える。誰にも理解されない論理のつなぎかたをしてしまっていたとしても、それに気づけるとは限らない。というか、それが整合的であるかのように見える、ヘンテコなまなざしを(どこかで勘違いして)持ってしまっていたら、自分で気づくことは不可能だろう。という意味では、常に怖い。
あるいは、そういったタイプの破綻ではないにしても、前提を共有せず、同じ情報を持たない人間に、そんな話しかたしたら、通じるわけないじゃん、といったタイプの「情報不足」的な読み取りようのなさ、を、別途、具現化させている可能性があるな、とも考える。なにを知っていて、なにを知らなければ、「伝わらない/伝わる」の分水嶺を超えられるのか、というところに関する見通しを、見誤っている可能性だ。
ちょろっとした書きつけも日記文の癖を駆使して
ちょろっと書きつけたメモは、支離滅裂ではないにせよ、基本、断片的で、自分にしか伝わらないことも多い。それと比べれば、ここでの日記の文章のほうが、まだ、ひとに読まれることも(多少は)視野に入っているぶん、飛躍をまぬがれるよう、意識ができている。
思いつきではあるが、この「日記に向き合うときの文章スタンス」を、もっとひろく敷衍してもよいのかもしれないな、とは感じた。なんの工夫であれ、わかりやすくなるならそれに越したことはない。そして、楽しい。というか、気持ちよい。
日記の文章、身体性なんていうべきかわからないのだが、自分の中のなにかに心地好く響くリズムで書けているのは間違いないんだよな。趣味的・個人的に書き続けてきたおかげで、そのあたりの手法だけは、堅固に構築してこれた。好きなリズムは見つけ出せてこれた。せっかくだし、それをひろく活かしてみてもよいんじゃないかな、とは思う。