世界は称賛に値する

日記を書きます

支配する二十二日、火曜日

同じ地平を軸線とする

起床時刻や食事、天気などを、日記に書きつけることに対し、たいした話題でもないため(ここの判断もどうなのかだが)文章としてつまらないものになっちゃうんじゃないか、と考えていたことがあった。最近は、毎日の記録として「確実なもの」を書きつけておくことに、意味がありそう、と思い始めた。下地や基礎になってくれる印象、と言える。ころころ内容が変わり続ける日記は、読み取るための取っ掛かりがない感じになって、文脈、を読解しづらくなる。それに対するストッパーになってくれるイメージだ。引っかかって、そこから思考を始められる。むろん、起きる時間や食べたものが「文脈」になってくれるとも限らないが(ならないこともぜんぜん想像できるのだけど)、でも、重みづけにはなってくれそう。文脈を読み取るための支点だ。

説明(SF小説)

季節や天気を記述するとおおむね「描写」になる。ぼくの日記には描写がぜんぜんないが(別に意識的にそうしているわけではないのが)、描写を書いたほうがいいんだろう、とは思羽琴が多い。ので、そういう意味でも季節や天気を書いたほうがいいのかなー(そうすれば自動的に描写が増えてくれるなー)、って考えることはある。雰囲気造りというか、空気感の醸成というか、印象操作というか、そういう効能があるだろう、と思っていて、そういうふうに創り出した「雰囲気」こそが最終的には記憶に「利いて」くる、と想像している。雰囲気造りがよいと記憶に残るものになるよね、っていう仮説を持っているのだ。ただでも、ぼくは説明が好きすぎるんだよな。手癖で書いているとどうしてもそちらに寄せていってしまう。SF小説がとても好きなのだけど、今日SF小説を読んでいたときに、これって「説明が多い小説」として好きなんじゃないか?って思ったりした。

下世話や愚かがにじみ出る

下世話さも愚かさも書いていくうちに前面にしみ出してくる瞬間がある。下世話や愚かの定義が曖昧だぞ、とは思った。下世話や愚かが「よくない」ものかどうかの話もまた議論の余地がありありだろ、とも思った。とはいえ、隠したがる癖はある。普段の行動原理だけ見れば、あ、こういうのよくないやつなので隠さねば、って考えているのは確かだ。経験的に「よくない」と思っている人格面に「下世話」「愚か」とラベリングしている、という言いかたも(順序の調整も)可能ではある。

もったいないので体裁を取り繕う

文章で「なぜなら」や「だから」を書いていくうちに、つまり、じぶんの中の理由や根拠を突き詰めていくにしたがって、あ、これ、無根拠に空疎なイメージだけで馬鹿にしてるやつじゃん、人様には見せられない間抜けな姿だ、って気づける瞬間がある。うわ、やべ、こんな思考が出てくんのか、って、じぶんでも引いてしまったりもする。こういうときに思っているのが「下世話」で「愚か」というラベルかなーと思った。流石に披露したくない、と思って、たいていは取り下げる。でも、ぜんぜん書けてないわけじゃないし、ぜんぶ却下するのももったいないか、なんて思ってしまって、体裁を取り繕い始めたりもたまにする。が、取り繕ってもわりとろくなものにならない印象だ。

きらきらで誤魔化す

文章を書いているさなか、下世話さや愚かさが露呈しそうだと予感したときに、誤魔化そう誤魔化そうとして「迂回」し始めることがあるのだった。ド直球で書いたらバレるので、変化球的に、きらきらしたような見栄えのよい言葉をちりばめることで性質を分散させ、見えづらくさせてしまおうと(見えづらくさせてしまえばなんとかなるだろ、という安直さで)画策し始めることがある。そういう気持ちで書いた文章を読み返していて、何を言いたいのかわからん……!ってなったので、反省した次第だ。結果として、むしろ下世話さや愚かさにフォーカスしてしまうか、とも思った(それも誤魔化しの一つではある)。やはり誤魔化した文章は読みづらくなるものだ、とも思った。

まあでもバレる

誤魔化そう、嘘をつこう、という気持ちの中で書いた文章は、思った以上に「排除しきれない妙なねじれ」を発生させる、と認識している。そういう経験がここ数年で多少積み重なった。なんとかするスキル持ちもこの世にはいる、とは思っているのだけど(極めて真っすぐ誤魔化していてバレない人も見たことはある)、個人としては、想像以上に見抜かれた経験がある。そのことを思い出した。下世話も愚かも思ったほどは隠せない。黙っておくという手は一案だが(それはそれでそこそこやっているが)