世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年08月29日(木)覚悟のひと

迷惑をかけても

決して復讐や破壊が目的ではなく、世界を救うためにはこうするしかなかったのだ、というような強い意志のもとで戦っているタイプのラスボスもときどきいて、まあたいていは、主人公側が見つけ出した「都合のよい代替案」に押し負けることになっていたりするが、しかし、実際は、強硬手段に出たラスボスの独善的なやりかたでしか解決できないことだってあったんじゃないかと思う。ほかの手立てがないことだって当然考えられる。たとえば「FINAL FANTASY 10」はとても好きだけど、究極召喚を下手に否定してよかったのかは、いまでもわからない。

いずれにしても、決意のもと、覚悟のもと、自覚のもと、なにかをやっているひとに、下手な文句や批難をぶつけたところで、なにになるんだろう、とは思わなくもない。

揉め事を眺めた

揉め事めいた対話の風景があって、眺めていた。世界、社会、世の中、みたいに言うと聞こえはよいが(ときには悪いが)、とにかく、「まわり」をよくするため、なにかしよう、と思った時に、どういうふうにすればよいかは、ほんとうに難しい。もちろん画一的な答えはない。合理的で即効的な手段が、ほんとうに有効かどうかさえ(中長期的に見たら)わからない。非効率で無駄が多く、流れ弾も多いような迷惑なやりかたでしか、突破できない境地だって、ないとは言えない。そんなふうに言うなら、結局なんだって「ないとは言えない」じゃん、って言われるかもしれないが、だからといって、じゃあ「可能性は0だ」と言えるわけでもない。

極めて有害な敵を相手取るのではなく、ささやかな有害性を持つくらいの(しかしそのぶん、多少は、話す余地のある)相手を前にして、うじゃうじゃとちょっかいかけているうちに、極めて有害な敵もやりづらくなって減っていく、みたいなことだって、ないとは言えない。「あっちにもっと悪いやつがいるのに、なんで、あっちには攻撃しないんだ」とか言われたとしても、まるで聞こえないフリをして、邪魔なやつだ無意味なやつだと思われながらも、ちくちくと、広範囲に迷惑を振り撒いていたほうが、結果的によくなることだって、ありうる。

これこれこういうやりかたであれば、迷惑もかけずに済むし、正当性も掲げられるし、即効性もあるよ、っていう「適切」に塗れたやりかたが、かならずしも、正解だとは限らない。安全圏内にあった対処法の、なにもかもが、実は、どん詰まりなことだってあると思う。そういう、「正当性」「合理的」「効率的」「不備がない」「理解しやすい」「迷惑をかけない」といったところまで、ぜんぶいったんフラットにして、誰かが、自分なりの覚悟のもとで打開策を選んだときに、なにが言えるんだろうな、とは思う。一定の理解が(批難されるべき要素とともに)得られたら、まあ嬉しい、くらいのことは、自分だったら思う気もするけれど。

わずかな可能性には賭けるな

わずかな可能性に賭けるぜ、という決意のもと、実際、極めて酷い迷惑をかけられたら、やめろ、って言うに違いない。が、当人にとって、ほんとうにそれしかできることがないんだったら、どうすればよいんだろうか。「所詮"わずかな可能性"なんだから、そんなものはやめろ」と言ってよいのか、とは考えてしまう。「ぼくから見たら、あるいは、世の中から見たら、もっと可能性が高そうな選択肢がまだ残っているんだから、それをやれ」と詰め寄っていいんだろうか。それは「オマエのやっていることは間違っている」と言うだけの理由になるんだろうか。