誠実
ことばのうえでなら、なんとでも言える。発言と行動はイコールではない。誠実な言説ばかり繰り返していたとしても、行動がぜんぜん誠実じゃなくて、信用に値しないケースはありうる。意図的にそれをしている詐欺師もいれば、本人の認識のうえでは、誠実で真摯、明るく前向きなことを言っているつもりでも、行動はまったくともなっていない、みたいな人間だっている。口先では酷いことばかり言うのに行動がとにかく誠実な人間だっているだろう。四象限マトリクスみたいにまとめられるなとは思う。
見てくれの取り繕い
無頓着に文章を書くと、一定の誠実さや真摯さを織り交ぜた文章を書くことには、なりがちだ。品行方正を装い、いい子ぶっている。そうして信用や信頼を得ようとしている。というか、好かれようとしているんだと思う。それを俯瞰して、「えらそうなことを言ってんじゃん」「出来もしないおためごかしや建前論で切り抜けようとしてんね」と、自分に対し、冷たい目線を向けたくなることも、少なくはない。ウソとまでは言わずとも、底上げの気配を感じ、むしろ誠実じゃなさを読み取りたくなる。こういう、ぱっと見たときの見てくれのための、辻褄合わせや、取り繕いを、なんとかしたい、とは、けっこう思う。どこまで「なんとかできる」のかはあやしいとは思いつつ、許容という名の放置をすることは避けたいなあ、と考えはする。
こうしていきたい
というような、「なんとかしたい」「考えたい」ばかりの(そうして、実践をともなっていない)文章こそが、不誠実の極み(極みとまで言うのは誇張な気もするが)なのだ、とは感じる。「考えさせられる」が、思考停止を誘うだけの言葉だと糾弾されがちなように、「こうしていきたい」というだけの言葉にも、思考停止を呼ぶなにかはある。もちろん、ほんとうにそうするか(思考停止で終わらせてしまうか)は自分しだいなんだけど。
とはいえ、日々書いていく日記で、「今後こうしていきたい」という方針を描くことの、なにが悪いねん、というツッコミも、もちろんなくはない。まあ、ずっと、何年も何年も、「やらないと!」みたいな決意表明だけはしつつ、たいしてなにもしない、といった持続した事例が見られたら、そのときに、そこを攻める手は、あるとは思う。ただ、永遠に解決には手の届かない人生の問題もとうぜんあるはずだから、乱暴に「サボりすぎ」と断ずるのも、それはそれで浅はかだ、って気はする。軽々しくは言えない。そうすると、なんも言えん、って感じにもなるが。