劣等感トーク
劣等感や反発心から出力された「自己正当化のための説明」って長くなりがちだ。と、きのうおとといの日記を書いていて、感じるところはあった。いわゆる「言い訳じみた」感じとなって、話が長くなる面も、たしかにある。
きのうおとといは「青臭さ」の話を書いた。ぼくがぜんぜん捨てられず、引きずっている「青臭さ」を、捨てて当然じゃん、それが大人じゃん、と見做しているかような(被害妄想のフシは多分にアリ)言葉に出くわして、自分のスタンスを防衛したがってしまったために、状況を整理し直す体で、自己正当化に走った側面が、きのうおとといの日記には間違いなくあった。
おしつけあい
けどまあ、自己弁護のため自己正当化することばで反撃してみたところで、どうせ、互いが持つ「正しさ」の押し付け合いになるだけだな、とは思う。「理屈と膏薬はどこにでもつく」ということわざがけっこう好きだけど、実際、理屈による自己正当化なんてやろうと思えばいくらでもできるに違いない。そうして理屈付けして、対立するふたつのスタンスをぶつけあったしても、結局は、そこにある"巧みさ"の押し付け合いになるだけのことが、ほとんどだと思う。
とはいえ、「だから自己正当化なんてしないほうがよくない」「自己正当化はあんまりよいものではない」といった領域にまで踏みこみたいわけではない。というか、そこまでは思ってないなと思う。むしろ、ことばにしてみせる動機や契機になってくれるなら、それでいい、とは感じる。自己弁護でも自己正当化でもよい。自己欺瞞であっても多少は許容したい。ともかく、ふだんは目を逸らしがちなところを、言葉によって補強するきっかけになってくれるのであれば、四の五の言わず受容したい。