世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年03月23日(土)口先でもよいらしい土曜日

口先優遇

「こんなことがやりたい」「こういうことが書きたい」とか言っている人よりは、「自主的にやり始めた人」「すでに書き始めている人」のほうが、上、というか、優れている、格好よい、偉い、といった判断はあってよい。というか当然あるだろう。こういう認識って人類不変の法則くらいのものなんじゃないかなと考えたりもする。時代が変遷すれば価値観も美意識も大きく変わる――ときには美醜の逆転さえ起こる、とは考えることもあるものの、それでも、結局ここは変わりようがないのでは、って思ってしまう。「したい人」と「している人」が比べられて、「したい人」が厚遇される場面なんて、ないんじゃなかろうか。言っているだけなのと、全身を動かしてみせるのでは、難易度がぜんぜん違う。結果的に、発言だけのほうが(ある程度)軽視されがちだ。そこはどれだけ人類史を追っていっても変わらないのではないか。

なんてことを書きながらも、どうにか「口先だけのほうがむしろ厚遇されるシチュエーション」を構築できないか、って考えていた。が、困難だった。今後、大がかりなアクションが費やすエネルギー量に批難が集まるような世界にたどりついてくれれば、「口先」が厚遇されるシチュエーションも可能ではあるのかな、とはいちおう思った。発言だけで物事が進んでくれる世界なら、派手な動きは「余計」「無駄」だとされ、批難対象になり、評価されないどころか排斥される、といった場面は、まあ想像できる。

ぱっと見の印象は悪くとも、「口先」はたしかに省エネだ。この"省エネ性"が適切に活かされる場面は想定可能だと思う。なんでもかんでも派手に動き回られるよりは、まず言葉で行動方針を説明してくれたほうがありがたい、といった状況だってあるだろう。そういった状況の存在を踏まえるなら、「口先」が褒められることだってあるんじゃないかな~、とは思えた形である。活かしかた次第だとは考えてみた。