世界は称賛に値する

日記を書きます

日常趨勢の9月20日水曜日

日記情勢

職場で見かける(喰らっている)"いらだち"には最近ほんとうに当惑させられている。いくらかのおびえすらあると思う。そんなふうに感じているため、題材にすることも増えているわけだが、正直、難問だ。スッキリ書けてはいない。見当違いの言葉が混じる。別に触れなくてもよいという説はある。おびえも弱気も陰口も自己正当化も混じるし、あえて触れない手はもちろんある。しかし、たしかに気落ちはしているし、ほどほどの割合を占めているのに触れないのもなんだし、実際触れてみるといくらか元気にもなるので、書いてみたいとは考えてしまう。そんなこんなな昨今の日記情勢なのであった。

前は明るいほうばかり見て日記を書くことが多かったが(それが習慣になっていてほとんど自覚もなかったが)、最近は、ネガティブな事柄についても、整理・発散・解消などの副産物も狙いつつ、書くことが増えた。それが良いとも悪いとも、好きとも嫌いとも、思わないが(好き勝手にしちゃってよいでしょ~という感じだ)、まあしかし、前は書いていなかったぶん、書くのもアリっぽいぞ、とは感じられるようになった。

思惑まぜこぜ

ぼくの思惑、相手の思惑(想定版)、相手の思惑(実際版)、そしてそのそれぞれを、思考・感覚・感情の三つに切り分ける。さらには、正義、道徳、責任といった倫理面での整理。対策として有効または無効の判定結果。それらぜんぶを織り交ぜて文章を書くのは難しい。というか、各レイヤーが勝手に混ざってきてしまうのが難しい。マジ混乱させてくる。なんて難しいんだとはあらためて思った。

このやりかたが最善か

「できなさに厳しい」「ミスに厳しい」「ルール違反に厳しい」「サボりに厳しい」「甘えに厳しい」と、人を裁いたり批難・叱責したりするにしても、いろいろである。どこを見ているかも違う。どこに引っかかるかも違う。なにが許せないかも違うだろう。そして、叱りかたや怒りかただっていろいろだ。褒めたほうがよいのか、凹ませたほうがよいのかも、相手による。場合にもよる。一律の答えはない。ただ、成果や成長にはつながったほうがよい、という指針はあってよいかな。このあたりの整理はやはり難しい。

相手のいらだち、表情や口調に対するおびえや嫌悪をきれいさっぱり取り払って、評価者が自分に向けている業務上のやりとり・やりかたをフラットに眺めたときに、これが最善のやりかたなんだろうか、と問うてみるなら、あらためて難しいとは感じられる。モチベーションもボルテージもテンションも空回りさせられているような心境ではあるので、嫌な光景に(ぼくからは)見えてしまうわけだけど、ほんとうにそうかはもちろんわからない。相手の思惑もわからない。なにか目的があるのかもしれないし、その場限りの感情的な振る舞いなのかもしれないし、ただの運頼みなのかもしれない。説明してくれたらもうちょっとマシとかも思うけれどほんとうに説明することが効果的なのかも不明だ。

いらだちが向けられていると感じ、そこを軸に反射した結果、反抗的・反撃的・反骨的な精神で話を聞くケースがやや増えている。しかしそれもどうなんだろう、と思って、昨日に続いて再考するように書いてみた形だ。

叱られた際、「このお叱りが最善のやりかたなんすかねえ」と頭を働かせながら耳を傾けるのは、冷静さを取り戻す手法であることもふくめ、悪くないやりかたかなとは思えた。