世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年06月17日(月)いつまでも基礎固めってわけにもいかないが(いかなくても)

精緻化

雰囲気が、大枠が、一端が、なんとなくつかめた、という手触りを感じただけで、「わかったわかった」と言ってしまうようなところが、あったと思う。とにかく、わかりたかったのだ。「わかる」のは、恰好よいし、気持ちよい、という認識だった。まあ今でも変わらない。しかし、「わからない」の大切さや素敵さもわかるようにはなった(ほんとうにわかっているのか、この文脈だと、少し不安にもなるけれど)。少なくとも、「わからない」って言ってもよいんだな、って思えるようにはなった。関連する形で、たとえば、質問するのも好きになった。

基礎がため

基礎を曖昧にしたまま進んでいくと、いずれ、限界がおとずれ、ガラガラと足場が崩れ始め、最終的には総崩れになる。まったく前に進めなくなりさえする。といったエピソードを、たとえば学問にかかわるところでは見かけたりする。あるいは、これの裏返しで、基礎に立ち戻って、「わかりきっている」と思って、飛ばしていたところを、あらためて学び直してみたら、結果として、ものすごく成績が伸びた、というような話も見かける。

限界や伸び悩みを感じることが最近は少なくないが、そういったときには、このあたりの構造について考えるようにはしている。けっこう「飛ばし」てきた感覚があるため、反省しているのだ。基礎固めを常に意識している。四十代五十代を迎えるいまのタイミングで、基礎に戻っている暇なんてあるんすかねえ、といったツッコミも、湧かなくはないが、だからといって、あせって雑にやっていったってどうにかなるわけじゃないじゃん、とも考える。一段飛ばしにやってきて、やっぱり限界があったんだから、諦めて、ちゃんと時間をかけましょう、とは思っておく。いまさら間に合わない可能性はあるとは思いつつも、とはいえ間に合うかもしれないし、なんだかんだ、希望はあるんじゃなかろうか、って考える。理解の粒度や範囲が高まっていくの、シンプルに、気持ちもよいし、まあよい。