世界は称賛に値する

日記を書きます

月曜日の始まり

▼▼行動指針や理解や世界観や理想論の話を聞くと、まあおおむね「空論」として脳内空間にぼんやり浮かんで、とりあえず浮かぶだけである。言葉が一人歩きし始める、なんて言ってもよい。▼▼で、具体的体験から来る認識の改革が少しだけ実感というものを生成してくれてあるいは結晶化してくれて、抽出されたそれが空中に無数に漂う「空論」をこれまた少しだけ躰の中に落とし込んでくれる、なんて語れるような比喩認識がありそうかなー、と考えていた。▼▼試行錯誤が長くなった。あとで整理しよう。

読ませていただきました。感謝と感銘をお伝えするとともに推薦も交えたいのです。

→ 「KJ法を説明することは、「なぜあなたがやるKJ法はうまく行かなかったか」を説明する事に、ほとんど等しい。 一番よくあるのが「分類という病」だが、あるファシリテーターは「分類」をたしなめるのではなく(そうするとかえって「治療抵抗」が引き起されるだけなので)、あえてさらに「分類」に追い立てる事で、この罠を抜けるところまで持っていく。病気の経過を速度を上げて通り抜けさせるところなど、なかなかおもしろい」

→ 「でもときどきに不合理になるのは、むしろ自然なことのような気がする。偶然を呼びこむことが必要な場合もあるように思う」

→ 「でももし、遠い未来、技術が発達して、人とまったく見分けのつかないアンドロイドだかができたとしたら、それを「殺させる」商売ってのは、きっと誰かがやりそうな気がするんですよね」

→ 「常識や限界を定義すれば、それを覚えたらあなたは敗れるだろう。考えるんじゃない。感じるのだ、友よ」

→ 「人は、愛を暗黙的に知っている。それが起点になる。では、どのように知るかというと、単純に魅惑・魅了の意識だろう。これが自我の臨界を暗示するので、いろいろとやっかいなことになるし、それもまた暗黙の所与だろう。人は、うっすらと、愛のなかで死ねると理解しているし、愛のなかでしか死ねないと知っている。 愛が難しいのは、それがどうも必然的に失敗するような、なにか存在論的な仕組みを持っていることだ。たぶん、自我意識との相関の、生物的な基礎があるのではないか。 別の言い方をすれば、自分が何かに魅了されている、だから愛している、というのは、お子ちゃまであって、そうした愛が砕かれることで、愛ってなんべ?ということになる。そしてまた次の魅了を求めていくのは、ただの愚行だろう」