世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年06月16日(日)ぶつかり続けるのがほんとはよくても精神力は削られる

ぶつかる

まわりとぶつかることを怖れすぎないほうがよいらしい、諦めすぎないほうがよいみたいだ、とは考えている。基本的にはそう思う。物事を進めるにあたって(つまり人生を歩むにあたって)、当然、いろいろなやりかたがあるわけだけど、ただひとつの確実で適切な答えなんてない。だから、複数の手法を戦わせる形で、答えを常にブラッシュアップ・バージョンアップしていったほうがよいんだろう。よい結果、よい成果につながりやすくなる。逆に、ぶつかることを怖れると、足が止まって、そこで停滞し始める。腐敗し始める。世界はいつだって変わり続けるのだから、自分だって、あるいは共同体だって、変わり続けたほうがよい。そうすることで、構造的に、よいと思われるほうに漸近していくことにはなる。その可能性は潰さずに済む。どうせ唯一絶対の答えはない。ぶつけ合いながら、ぶつかり合いながら、よりよい組み合わせが見つかることに、賭けていくしかない。

壁にぶつかっても、致命的なところまではめげることなく、立ち上がりながら、前に向かって歩みを進めるスポーツ漫画なんかを読んでいると、そのあたりのことは、はっきり痛感させられる。昨日観た『アオアシ』の主人公においても、諦めなさと、理想を信じる精神が、はっきり描かれていて、同時に、そこから波及していく周囲のひとたちの心や身体の変化もまた、描写されていて、こういった「挑み」で変わる世界のことを、忘れてはならないんだろう、とは、あらためて感じた。

まわりからは猛反発を受けながらも、みずからの判断や感性、思いを、決して否定しきることはなく、最後の最後では信じ、まわりの人間ともあえてぶつかりあうことで、決意を、覚悟を、訴えかけていく。具体的な変えかただって、隙のない形で検討し、単なる理想論でないことを提示してみせる。結果として、チームなりが会社なりが、すごくよい姿になってくれた、成果も出せた、評価もされた、といったケースは、もちろんあるのだと思う。基本的にはそういった振る舞いを選ぶべきなのもわかる。

けど、こういう基本的かつ理想的な「選ぶべき」やりかたと、自分自身の現況が、うまく噛み合ってなくて、最近は少し困っている。どちらのほうへ足を踏み出し、重心をかけたらよいものか、迷っている。

なんでもかんでも熱い気持ちで前向きにぶつかるやつがいればとにかくよくなるってものでもないだろう。どんなに情熱をもって志を訴えていてもときにはそれが単なる下策で無下にされ続けることだってあるだろう。このあたりを見定める基準が、難しい。ひとが複数いるなら、その数だけ異なった価値観があることを前提とし、それらをぶつけ合いながら、弁証法かのように、よい答えを探していく、といったやりかたが基本的にはベストなんだ、っていう判断は当然理解できるのだけど、とはいえ、どうしたって混ざりあってくれないこともまた、あると思う。混ざらないとまではいかなくても、「うまく混ざりあうまでに異様に時間がかかる」「ほかの場所にいって試したほうがきっとよい」といった場合だって、あるはずである。諦めが肝心、変に名残惜しんでそれこそ足を止めていてもなんにもならない、といった判断のほうが適切な場合だって、あるに違いない。そこをどういうふうに捉えたらよいのかな~とは考える。諦めたら負け、みたいな安易な前向きさに固辞してしまっていると、なおさら困らされたりするし。

「諦めるには早すぎるんじゃ」と、「よく頑張ったよ次いこう」の、判別が難しい。ひとに判断してもらおうとすると、背景や経緯をどういうふうに説明するか、で、結局、答えが変わってきてしまう気もするしな~。だからって、自分で判断しようとすると、自分に都合のよい判断に寄ってしまいがちである。このあたりでぐるぐる迷っている動きをずっとやっている気はしなくもない。けど、だからって、誰も決められんのよね。人生がおおむねそういうノリのものだというのはわかるんだけども。やっぱり厳しい。なにかしら答えがもらえたら嬉しくはあるな~。賢しげなひと、偉ぶったひと、からあたえられる「教え」「導き」に引き寄せられる気持ちも、まあわかる。