世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年06月18日(火)前は見ている

いじけてはいない(全体としては)

まわりから見たら、いじけているだけ、ふてくされているだけ、すねているだけ、なげやりになっているだけ、みたいに見えている可能性はあるとしても、そして、そういう解釈が可能ということで、「無責任だ」「甘えだ」「子どもだ」といった攻撃にさらされることもまた、ありそうだとしても、自分側から見たら、ただ、防衛に専念しているだけ、といった状況もまた、ごく普通にありうることなのだとは思う。構えをとかせようとしてくるけど、それに耳を貸したら、やられるだけだ、っていう状況だって、ときにはある。

傷や痛みをしっかり見て"言葉にする"なら、「打ちひしがれている」「くじけている」「希望を失っている」あたりの言い回しを選びたい。別にこれらの単語を当てはめたから妥当ってことでもないのだけど、「ふてくされている」「すねている」「なげやりになっている」なんて表現されるよりは、まだマシだ。主体的にやる気を出していないのか、受動的にやる気を奪われてしまったのか、っていうところに線を引いて、なにかを主張したいだけ(要するに、「ぼくのせいじゃないぞ」と言いたいだけ)なところもありそうだけど、それはそれである。

そんなんじゃないとは言い切れない

あいかわらず、「自分でもうまく区別できない」領域ではあるのだ。特にすねているつもりはなく、もちろん、あえてすねたいわけでもなく、ただ、いまは、防衛だけを考えて最優先しているつもり、じゃないと耐え切れなさそうなので、苦渋の選択として決意したつもり、ではあるのだけど、とはいえ、「すねている」という指摘が完全に誤りになるのかというと、たしかにそんなこともないんだよな~、とは考えてしまう。考える余地はあるなあと感じられる。「すねる」気持ちもゼロではない。よく見れば混じってはいるだろう。ちょっとでも混じっているなら、そこを指摘されたときに、「そんなんじゃない」と断言するのは、難しい。そこは本質じゃない、本体じゃない、枝葉だ、と言い張れるだけの根拠が構築できていればよいのだが、そういうわけにもいかない。

うーん、これはすねているのかなー、自分でもわからないなー、だとしたらどうすればいいんだろうなー、って考えていた。

気持ちを立て直して、前向きになって、あらためて率直に働きかけようとすると、そのぶん無防備な姿をさらすことになってしまって、結果、過大なダメージを負わさせる羽目になってしまう、っていうシチュエーションは何度か味わされてきたため、もうあんまり挑みたくない。しかし、働きかけを完全に取りやめる選択肢が最善かと言われると、それも迷う。迷うが、致命傷を負うよりはよいだろう。しかし、うーん、迷う。と、まあ、ぐるぐると考えてはいるわけだけど、じゃあ次はどうしたらよいんだろう、の答えは出てこない。

前は見ている

同じような内容を、悩みを、描写し続けていることにはなってしまっているけれど、自分自身の暗い気持ちをどうにかしようとあがいているのは間違いなくて、その前向きさは嫌いじゃないぜ、と、最近の自分の日記を読み返しながら、思ってはいたりする。

いまいち打破できてはいないが、まったく前に進んでいないわけでもないっぽいところも、悪くはない。ときどき大幅に後退させられるため(怖がりすぎだと思うけどね、そこも難しいね)(まわりのあることではあるし、そうそう思う通りにはいかないか)、トータルで見たときに「しっかり前進できているのか」と問われると、答えに窮するところはあるけれど。