世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年09月09日(月)昔の日記を移植します

Obsidianに昔の日記を

ブログの文章管理をObsidianというデジタルノートを使っておこなうようになった。以前は、縦書きで書きたかったのもあって、それが可能な専用テキストエディタばかり使っていたのだけれど、最近は、Obsidianでの横書きにも慣れてきた。縦書き・横書きがスイッチ可能になった。スタイル問わず振る舞えること自体は嬉しい。そして、ツールによって検索性が上がるのもありがたい。日付別にたどりやすくもなった。便利になったと思う。過去の日記もここに統合していきたい。手作業になるが少しずつ移していくつもりだ。振り返るだけ振り返ってみて、今日はまず、2002年1月1日の文章を移動させた。

 強気

二十年ほど前の日記を読み返したら、べらぼうに強気だった。けっこう「浅瀬」のほうにありそうな普通のことを(現状から振り返れば、かなり平凡っぽく見える見解を)を、だいぶ大仰に語ってみせていた。恥ずかしげもなかった。感心させられるくらいだった。が、ここでいう「浅瀬」「深遠」みたいなものは、結局、現在地点から見える景色の違いに過ぎないとも思う。いつだって「さらに奥」がありうるわけだから、「あの頃は間違っていた」「いまいるところが正しい(正しいところにたどり着いた」なんていくら語ってみせたところで、意味はないんだと思う。たとえばもし、あと百年、生きられたら、いまいる地点だって、「浅く」見えるんじゃななかろうか。まあ、もしかしたら人間が到達できる「浅さ・深さ」には限界があって、それなりのところまで達したら、あとはもう、浅いもんは浅いし深いところは深い、だけなのかもしれないけれど。

若さゆえの、ふてぶてしい感じ、偉ぶった感じ、賢しらな感じ、言い切ってみせる感じ、意気込みだけはある感じ、口先だけの感じ、とはいえ虚勢も虚栄心も垣間見える感じ、など、場面場面でのよしあしはあるにせよ、なんだかんだ、よいところでもあったんだろう、とは思えるところもあった。活かしえたシーンもあったと思う。

ただ、ここに、「若さゆえの」とか付けてしまう安直さや短慮も、なんとかしたほうがよいんじゃないの、とも(いま)思わされた。若さのせいでそういうものを露出させてしまっていた、といった判断は、たぶん甘々だ。油断がすごい。いまなら脱却できているぜ、と無自覚に感じている証左だし、なんかむしろ、都合のよい解釈に寄りかかりすぎていて怖くなる。願望によって、まなざしが歪められていることくらい、検証しといてよ、と思い直した。