過去の日記の好きじゃなかったところ
書き溜めていた(放置していた)過去の日記テキストを、ちょこちょこと取りまとめている。管理しやすくなるよう統合していっている。そして移植中に読み返している。ほほう、ふーん、はあ、といろいろな思いで読んでいた。納得いかないところも少なからずあった。
すごくよいものを書いていた、とは感じられないところがたくさんあった。嫌いなところもあった。表現面でいえば、ところどころ大袈裟すぎて気に喰わなかった。例を挙げれば、「なのだ」「なのである」「なのだから」といった言い回しが過剰だった。「けど」「が」を使ったときの順接・逆説の流れも、微妙におかしくて、引っかかった(そもそも使いすぎだった)。内容面では、根拠の曖昧さと、曖昧なくせに「断言」的に描いてしまう言葉選びの迂闊さが、好きじゃなかった。そして、できればそのふたつは相性が悪いので組み合わせないでほしかった。曖昧で迂闊な話を大袈裟に語られると流石に、「なんで?」ってなる。
断言させたいなら、せめて、それが可能になるくらいには、「外堀り」を固めてほしかった。主語の範囲が広すぎて、狙っていないところにまで侮蔑や否定が届いてしまう問題が、たとえば起こりうるけれど、逆にいえば、範囲をしっかり限定しておけば(背景や目的をしっかり設定しておけば)、適切な範囲に言説が向くようコントロールはできるはずである。少なくとも、ある程度は可能だろう。確定的じゃないが、といったエクスキューズだって、言い回ししだいでいくらでもくっつけられる。昔の日記は、そのへんの見極めが甘かった。言葉足らずだった。
けどまあ、そもそも見えている範囲が狭かっただけ、という気はしなくもない。誰が読んでもだいじょうぶなように書いておかないとダメだ、といった意識がきわめて薄かった。身近な相手にしか目がいってなかったんじゃないかな。ともだち相手に喋っていただけっぽいというか。もしそういう文脈でとらえるなら、ともだち相手になに偉そうに語ってんねん、というツッコミが、それはそれで湧かなくもないのだけど、まあ、反省はしておきたい。
並置された正しさの見方がわからない
語っているうちに思い出してきてが、当時、ぼくにはぼくの「正しさ」(および、それを支持している経験・感覚)があり、相手には相手の「正しさ」(とその背景)があるのだ、っていうことの構造が、いまいちわかっていなかったのだった。複数の正義が並び立っている情景の見つめかたがわからなかった。うまく整理できず、結果として、見渡せる範囲は狭くなっており、「範囲を設定して語らねば」という発想すら、そもそも湧かせられていなかったんだと思う。