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日記を書きます

2024年09月12日(木)素敵な解釈を、真実を語る振る舞いだと誤認した

真似して書き始めたが勘違いしていた

一見ではつながってはいないように見えた、ふたつの要素を、見事な手さばきで、華麗につなげてみせる。認識外にあった「パス」を切り拓いて、接続してみせる。そうして、新しい景色をもたらしてくれる。そんなような着眼点の持ち主に、たいへんあこがれていた。そして、それを理解しやすいよう加工して語ってみせる腕前にも魅せられていた。はるか昔のインターネットでは(テキストサイト期からブログ期の最初の頃のホームページでは)、そういった文章を、高い頻度で読ませていただいていた印象だ。

あこがれて、自分も、文章を書き始めた。ただ、ぼくは、そういった文章を読んで、それが「真実」を語る所作であるかのように、誤解したところがあったんだと思う。厳密にいうなら、「真実」というものに関連してくれそうな、ややこしい概念を多用すれば、それだけで上記のようなことが可能になるんだろう、と、(安易にも)勘違いしたんだと思う。そこで語られていたことの性質をきちんと理解することなく、ただ、語り口の外面的な特徴にばかり気を取られて、それをトレースすればよいのだと思いこんでしまった。しかもそこに、(あこがれで盲目的になっていたせいで)「真実」「本質」「神髄」みたいな輝きまで幻視してしまった。

わかりきったようなことを、ちょっと小難しい言い回しで、かっこつけて、偉そうに、賢しらに、語ってみせていたのは、おそらくそのためだったんだろう。と、過去の日記を読み返していて、ちょっと想像させられた。しっかりと検証できるわけじゃないけれど、思い当たるフシはたくさんある。語りかただけ(見た目だけ、しかも劣化版的に)物真似していただけだった。

いまも同じやらかしをしている可能性

ちなみに、いまでも同じことをやらかしてしまっているのではないか、とは思わなくもない。けっこう怖い。実際、そういった要素(表面的なところにばかり終始していて、内容が甘くて薄い、というやらかし)が、皆無、ってこともないだろう。日記を書くときのことばが、ふだん使いのものと違うのは間違いないし。演じているというか、かっこつけて装飾しているところは明らかにある。内容よりそちらに気を取られている面もあると思う。別にそれが良い悪いの話でも本来はないはずだけど、しかし、結果として、「見た目だけ」真似して、そこにある内容を誤解している状態がいまでも続いてしまっているのであれば、流石に嫌かも、とは思ったのだった。真実を語ってみせると躍起になって、小難しい言葉を使えばそれが為せるんだと、そんな誤認を、いまだ、足場にしてしまっていたら、いやだな~、とは思ったしだいだ。