世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年06月01日(土)復習をしましょうといつも思う

気ままと師事

読書などで学んだことも、たいていは忘れる。ただ、丁寧に復習しておけば少しは記憶の網目への引っかかり率も高まってはくれるんだろう。そして、日記として内容を書き残す、というやりかたもら復習のひとつにはなるはずである。だから、日記に、「今日学んだこと」を書くのは有効なのだと思う。といった理屈で、もっと学びを書き残しましょうかね……、と思い立つことはあるのだが、なんだかんだ、ひとりごとのような思索ばかり書き残している次第である。独白めいた思索の甘い誘惑に抗えず、いつも打ち負けている。独り遊びに耽溺している。誰かが見てくれる可能性があるというインターネットのひらけている感じも相変わらず好きだし。

(誰かから)学んだことを書き残す、(ひとりで)考えたことを書き残す、っていう対比だと、「自主性」「能動性」みたいなフレーバーを嗅ぎ取って、一見、「(ひとりで)考えたことを書き残す」のほうが有意義であるかのように感じられたりもするのだけど、しかし、知見のある人物に師事し、基礎・体系・理論を学ぶことによって得られるものも、間違いなくある。そちらのほうが最終的な質が上がるパターンだって想定できる。誰かから学ぶことのそばに「自主性」「能動性」を配置することだって可能だ。「学んだ」の内側に「考えた」を内包させることだって可能である。どちらがよいかは一概には言えない。というかそこを対比させているのがそもそもアレっぽい、と話の落ち的には思った。