世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年05月31日(金)幼稚を肯定というか、まっさら推奨なのか

否定しない

「青臭い」「幼稚」「未熟」といったものを否定しないスタンスは確立したい、と、まず思った。年齢を重ねていきながら、一般的・基本的・常識的な経験をへて、やれることやれないことを学び、足るを知って、聞き分けがよく、効率的・効果的な振る舞いのみを、「主」であり「正しい」ものだと見なすようになる。そんなスタンスばっかり肯定したくない、って思った。そういうものが、たとえば「成長」「成熟」「洗練」と呼ばれるなら、むしろそちらを否定できないかな、と考えたのだけど、しかしそれも難しかった。「未熟」から「成熟」にいたるような、流れ、向き、を否定し、単なる「差」だ、「違い」だ、って言い切ろうとしたのだけど、困難だった(このあたりが昨日の日記になった)。

たとえば、努力、集中、執念といった要因によって、「上手くなっていった」こと(これを「未熟ではなくなる」=「成熟する」と言えそうな例、としてみたい)に対し、「ただ"違う"だけ」「ただ"差"があるだけ」「それぞれが端的にそうあるだけだ」って言い切ってみせようとしたけど、それはそれで違和感があった。ためらうものがあった。強い気持ちによって努力しなにかを習得した経験と、すべてはただ端的にそう在るだけだということの、噛み合わせが悪くて、困った。

わからない・幼稚

ある程度「わかれ」ば、この世で生きていくことは可能っぽい。が、実際は、ぜんぜんわからないことばかりである。このことを直視するとだいぶ不安にはなる。目を逸らしたくもなる。しかし、繰り返すが、わかったと決めつけて、わかったような顔をして、ふるまっていれば、そこそこは動けるみたいだ。そうしていれば、気はまぎれるし、不安もやわらぐ。ずっと不安に苛まれているよりはいいか、っていう判断だってあってよい。こういう書きかたをしておいてなんだけど、実際ぼくがそうしていることだって多い。

こういう、「なんとなくの"わかった"」に、ハマりこまないため(少なくともときどきは距離を置くため)、いうなれば「ものごとを知らない」ような視座に、あえて立とうとすることがあって、それを「幼稚」って呼んでいる気もしてきた。「中途半端なわかった感」から脱却するための振る舞い、だ。逆にいうと、こういう「中途半端なわかった感」を当然のように受け入れている精神を、おとな、と呼んで、忌避している気もする(それが逆転して、幼稚、って単語が出てくる形だ)。

と考えていたら、「幼稚」という呼びかたがそもそも不適切なんじゃないか、って気もしてきたかな。たしかに、子どもは「ものごとを知らない」「わかっていない」立場で目の前のものを見るし、突き詰めればこれはそういうアプローチに憧れる話でもあるのだが、ともあれ、それが、子どものものに似たものであるからと言って、わざわざ(子どもに対して用いられやすい)「幼稚」って言葉を持ちだしてきて、当てはめる必要はない。

おとなになってから、あらためて、「ものごとを知らない」「わかっていない」振る舞いをしようとしたら、たしかに、まあ、馬鹿っぽくも見えるだろう。子どもみたいに見えることもあるんだと思う。そこに対し、とやかく言われるのを、事前に封じるため、つまり牽制するため、「幼稚」な振る舞いですけども……、と前置きして、自己防衛を図ろうとしてしまう。そういう構造もあるのかな、とは思った。

そしてぼくは、馬鹿みたいに見えても別にいーじゃん、むしろ素敵じゃん、と思うと同時に、自己防衛のために「子どもっぽさ」が変に利用されることに不満を覚え、「ものごとを知らない」まっさらなまなざしに対して、とやかく言うひとがいるような風土にも不満を覚え、さらに、「ものごとを知らない」ような形で「一から考え」ようとする意識が、「子どもっぽさ」に回収されかねない認識の粗さにも不満を覚えているんだと思う。