先生
最近は「師事したい」にやや傾倒中だ。いわゆる「先生」に教えを請いたいなと思う。学習的な効率や効果のことを考えてそう思っているところもあるが、シンプルに知的空間におけるコミュニケーションへの興味も強い。それに加えて、「他者」という未知のきっかけ、触媒、呼び水、火付け役、摩擦、などがあってこそ到達への道が拓ける境地、というものがありそうだと考えているため、その刺激を取り入れたいという気持ちもある。このあたりは内田樹氏の『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)の影響も大きい。
僕はその頃に「先生はえらい」(ちくまプリマ―新書、2005年)という本を書いているのですが、兄の言葉の影響もあったかもしれません。その本に書いたのは、「師」というのは、弟子の側が自分で作り出すある種の教育的な幻想だということです。「この先生は自分が一生かけて努力しても足元にも及ばないほどの叡智と技芸を会得している人だ」と信じて学ぶ人間と「この先生ははたして全幅の信頼を寄せるに足るだけの器量の人物なのだろうか」と疑いの眼差しを向けながら学ぶ人間とでは、同じ時間だけ努力した場合に、身につくものが決定的に違ってくる。
「えらい先生」というのは、理想的には「この世界で、私にとってだけえらい先生」なのです。それがもっとも激しい学びへの起動力をもたらします。というのは、「この先生のえらさを理解できるのは私だけだ」という思い込み(錯覚でもいいんです)だけが、人間をして爆発的な学びへ誘うからです。
なにしろ、「先生がえらい」ということを何よりも雄弁に立証できるのは「その先生に就いて学んだ当の私が、これこのようにちゃんとした大人になれたではないか」という事実だからです。自分自身の知性的な成長と感性的な成熟によってしか「先生はえらい」という言明の真理性は証明できない。逆に言えば、自分が成長するという当の事実によって、過去の自分の言明の正しさはあますところなく立証される。
コテンラジオの中で深井龍之介氏が、いま、五大宗教についてそれぞれ先生を見つけて学んでいる、という話をされていて、識者に師事して専門的な知見を学ぶことの価値をあらためて見つめた形だ。インターネット時代というのもあって、オンラインなりで教えを請うことは、比較的手軽になっているんじゃないかと思う。探してみてもよさそうとは思った。
学問おもしろい
学問の話はおもしろい。聞くたびに思ってもみなかった切り口が開陳されて、人類の知性ってこんなにすごいんだなといまさらながらに衝撃を受ける。ここ最近は聞く機会も増えて(主にPodcastの影響)、衝撃を受けすぎており、だいぶ目が眩んでいる気もするけど。いずれにせよ諸々の話がこれだけおもしろく難解であれば、そりゃ師事もしたくなるよとは思った。読書会や勉強会への興味が増し増しなのも同じ文脈である。
職業が変わった際、いろいろな指摘を喰らった。わりと嫌な言い回しも見られた。わざわざそんな言いかたを選ぶ必要あるんかと思うこともあったわけだけど、嫌味な言いかただったからこそ効果的があった、という面も、いちおうはあったと思う。マイナス効果も当然あっただろうから、最終的な算出でプラスに傾くかは不明だが、明白な無意味、無価値、無効かつ無駄な言い回しばかりではなかった。ぼくの場合、自分は自分の怠惰さや粗暴さを知っているので、それくらい言われてよかったんじゃないか、と思うところがあるだけかもしれないが……。まあなんにせよ、なんだかんだで、陰険で皮肉なお叱りが奏功した場面もあったとは思っている。
他者に師事することで「(多少傷つくことが増えるとしても)思ってもみなかったことを言われる」ケースが増える、そしての指摘に価値がありそう、と思えるようになったのは、そういった「嫌味なツッコミ」を経験したタイミングだったからかもしれない。精神が軋む言葉であっても、逃れられない場所で喰らったなら、聞き流さず受け容れて、聞くしかない。だがそういったものからのみ得られる栄養があり変化がある、といった認識が得られたタイミングというか。
学問はおもしろいし師事もそれに拍車をかけてくれそうと思うようになった経緯はそんなところかなと思う。これまでの人類の頑張りと愚かさの話は極めておもしろいし、これからの人類の可能性と限界の話も非常におもしろい。突き詰めればこのあたりのことって結局は夢想や妄想のように捉えていたところがあって、けど学問は、そういった夢物語に、"地に足の付いた"認識を織り交ぜてくれる。理想と現実と限界と無駄を腑分けして、新たな具体に近づくよう、頑張って並び替えようとしてくれる。そのあたりの話を聞くのはほんとうにおもしろいなと思う昨今だ。