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日記を書きます

2024年01月09日(火)断言に萎えた

萎え

読書中、変に断言されると萎える範囲があるなとは思う。なんでそこを言い切るかなあと思ってしまう。そうじゃない場合をなぜ許容しない感じで語っちゃうんだと思ってしまう。たとえば今日読んでいた言語化の指南書でも、萎える説明があった。「こういう気持ちは、ほんとうの気持ちではないので、嘆く必要はないのです」「こういった感情はこういう性質を持っているので、そういうときは、こう行動すればいいんです」「こういう行動を積み重ねていけば、こういう気持ちが湧いてくるはずです」「こうすることに意味があるんです」「これを残していくことで価値が生まれます」「こういう拡がりができていくのはよいことです」といった言い回しが多数並んでいて、なんとなく嫌な断言だなと感じた。

気持ちの話であること。感情や行動の動きを勝手に決めつけられること。ほんとうのとか言ってさも正しい答えであるかのように言い切られること。誰もが同じであるかのように語られること。萎える断言であるときのポイントをピックアップしていくと、このあたりになるんじゃなかろうか。こういう感じかた、こういう気持ちの動き、こういう納得、が"正しい人間の振るまい"なので、できないなら「失格」ですよ、って言われているような気分になるのを(たとえそれが被害妄想的なものでも)、嫌がっている気もしてきた。

都合の悪いものを視界の外側に放り出していそうな(しかも表層的には温和な)雰囲気が嫌いだ、って言いかたもできそうである。平和そうに見せているのがむしろ嫌というか。せめてリスクには触れてほしい。せめて肌に合わないひとがいる可能性にも触れてほしい。「こういった場合もあるかもしれないが、こうだ」「こういうふうに思えるひとなら、こうだ」と前置きをくっつけておいてもらえるだけで、印象がぜんぜん違うのになと思う。いないものあつかいはやめてほしい。押し殺さないでほしい。無意識の排除ならなおさらやめてほしい。ぼんやりでも触れてくれていたらそれでよい。言い回しさえ工夫してくれれば、明示的に語ってはいなくても、「気にしてくれてはいるんだ」「目を逸らさないでくれてはいるんだ」と感じられることだって少なくない。言葉の端々から配慮の気配だたよう文章だってある。極めて無邪気に、「家族は絶対によいものだ」「善意は絶対によいものだ」「仕事ができることはよいことだ」「競争するのはよいことだ」「お金はよいものだ」「ほんとうの人間ってこうだ」といった話をされたときに、うえ~、視野狭そう~、と思うのにも近い。

別ケースとして角度を変えて考えたのだけど、「こういう目的があるなら」「こういう前提があるなら」、《こうすればよいのです》、っていう前置き付きの文章がたくさん並んでいる状態なら、萎えずに済むんじゃないかとは思った。逆にいうと、前提条件のない断言、前置きが省略された文章、ばっかり見せられたときに、過度に萎えているんだよなと気づいた。前半部なしに後半部《こうすればよいのです》ばかり単品で連発されていると(視野狭窄的に見えてしまい)萎える。前置きは最初に書いたから毎回書かなくてもいいじゃないですか〜、って言われるケースがもちろんあると思うのだけど、その状況に気づけなかったら、一文一文に対して、視野の狭さを錯覚してしまうんだとは思う。そうするとこちらの読解力の問題にはなってしまうわけだが、しかしまあ、そういう場合もたしかにありそうだ。

あと、もうひとつのケースとして、そもそも読者想定として「肌が合わないひとには向けていない」「ので、例外シチュエーションを省略している」といった状態もまた、ありうるんだろう。そもそもフォーカスしていないから注釈もわざわざ置かないよといった方針のもとでの言葉の並び。向けていないところに不運にも(あるいは幸運にも)届いてしまった場合の問題である。今回の文章はこういうひとを相手に書いたものなのであって、対象外の全方位にまで配慮し始めるとページも時間も足りなくなるし、冗長にもなるため、省略・割愛しますよ、ってケースだ。そういった解釈まで心に留めておくなら、合わないと感じたものはサクサク諦めてしまえばよい、っていう話にはなるのかもしれん。ただ、趣味に合わないと感じたとしても少し我慢しながら受容していくことで視野なり手の届く範囲なり問題意識なり縁なりが拡大していくかもしれないよ、といった素敵な挙動の話も聞いたことはあるので、つまり読みたければ読めばよいのだが。難しいな。