世界は称賛に値する

日記を書きます

自主的の木曜日 6/8

木曜日

来週におこなう業務報告がうまくまとめられなかった木曜日だ。漫然としている。隙間が多いな。業務にも隙間が多いし記憶にも隙間が多い。自主的に日報をまとめていくくらいのことはやはりしないとダメなんだろうとはあらためて考えた。落ち着いて振り返ってそう思った。

「仕事ができる」という状態についてはいろいろ考えることがあるけれど、やはりなんというか、しっかり体裁を整えるというか準備を怠らないというか、ミスってもまあよいっしょ~、みたいな気楽さとは縁遠い。噛み合わせが悪い印象だ。だからこそ意識的に縁遠くしようとする意志こそが「仕事ができる」ということである、というような形状かもしれない。少なくとも、周囲の人間に「仕事ができる」ことの片鱗を感じるときは、そのあたりに触れがちである。

別にそういったやりかたが(「体裁を整え準備を怠らないようにする意志・行動」を優位に置くやりかたが)"正しい"とは思わない。特にそれが"正しい生きかた"とはまったく思わない。が、そういうふうに"体裁を整えよう"としたり"準備を怠らないようにしよう"とするひとの、良さ、はわかる。そういった形にスタンスを固めてみせようとすることの価値も想像できる。そういったものを避けるとき気持ちに、「諦め」とか「逃げ」とか言われるであろう安直さや油断が混じってしまいがちだということも、想定は可能だ。だから、ミスってもまあよいっしょ~、といった精神的指針でラクするのって、あんまりよくないよ、と定めるひとの気持ちも、わからないではないのだった。嫌いでもない。

うまく「必要な挙動がこなせる」ことの価値ってあると思うし、ちゃんと「必要なことを思い出せる」ことにも価値があると思う。それらを呼び寄せるものこそ「準備」なのである、という説明もいまならわかる。う~ん、学生時代にちゃんと"勉強"をこなしていると、このあたりが鍛えられるんだろうな、とは思えるのだよな。まあまあサボってきてしまったことは反省したい。油断するといつだってすぐ楽ちん側に寄っていってしまう。いまからの対応策としては自覚して調整するしかないぞって感じだ。