世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年01月14日(日)コンビニに歩いた

いま

小学校時代も、青春時代も、社会人になってからも、そして中年や老年を迎えようと、すべては「いま」という概念の前に等価じゃん、といった観点はだいぶ好きだ。いってしまえば人生のある特定の位置を特別視したくない気持ちがあるんだと思う。

たしかにどこを見たって「いま」しかない。だったらこうしてまさにある「いま」だけを見つめていればいいじゃん、という切り口といえるかな。幼い頃の「いま」、若かりし日の「いま」、現実の中高年の「いま」、いつか訪れる「いま」、たくさんのいまがあると、たいした根拠もなく、なぜか自明のように考え、比較までしたがってしまうことが多いのだけど、実はしなくたってよいし、価値づけたり意味づけたりもしなくてよい。むしろなぜしないといけないんだ、と問い直してみたくもなる。

油断すると若い頃の「いま」ばっかり誉めそやすことになりかねないため、ほんとうにあったかどうかもわからないそんな夢うつつのイメージに執心してかまけている場合か?とツッコみたくなる形ともいえる。

「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」というガンジーの言葉と言われているやつも、なんだかんだ好きなのだけど、同じような背景があるかな。「これからの人生の仲で、今日が一番若い日だ」というやつも同じ部類な気もした。が、いや、「これからの~」は別の世界観の言葉な気もする。とはいえ、いずれも好きな言葉ではある。時間感覚を狂わせてくる言葉はだいたい好きかも。

可能性啓蒙

といっても時間感覚、時間観は、つかまえるのも難しい。複雑だし、繊細だし、微妙だ。

誕生して数年にも満たないお子さまの挙動を眺めていると、流石に、無限に拡がる可能性というやつに視界をこじ開けられる感覚があるなあ、ということを考えていた。時間をあえて「点」でとらえようとする視点切り替えの余裕だってなくなる感じだ。できることが日々ぐんぐん増えていくインパクト抜群の光景が、半ば強制的に、「可能性」という言葉に目を向けさせてくるところは、やはりある。明日というものが持つイメージがどんどん巨大化し輝いていっている感じだ。「いま」ばかりにかまけてもいられないと無意識にあせらされる。けっこうそこはおもしろい。

ここのところ、お子さまの歩数が毎日一歩ずつくらい増えつつあったため、荒療治かなとも思ったが、近所のコンビニまで歩いていこう、と今日は挑んでみた。距離の設定にやや無理があり、途中からは抱き上げる羽目にはなったが、楽しそうなイベントではあったと思う。