世界は称賛に値する

日記を書きます

題号のヘリウム2/2木

タイトル

日記の題名にルールを設定する方式が妙に好きだ。再開したタイミングである2022年11月の日記には「××する××日、×曜日」、2022年12月の日記には「××を××たがる、××月××日×曜日」、2023年1月については「××月××日××ing」という題名をつけた。

この文章にはこういう内容が書かれていますよー、といったことがすぐにわかる素直な言葉で興味をもってもらう、という効果が期待できなくなるものの(統一感の感じられるタイトルが並んでいて目を引くくらいの効果はあるかもしれないが)、こういう言葉を並立させたような名前の並びを見るのが好きなのだと思う。とても楽しい。月ごとに変えているので2月はどういう題名にしようかなーと、いま考えている。この時点では2月1日、2月2日(これ)いずれもアップロードしていないからだ。ワクワクのテンションでルール選びをしている次第だ。

しかし「日記の題名」ってものに対する変な感覚はすこしある。変というか、違和感、不思議、という感じかな。日記には題名なんてないという認識があるためだろう。旧来の日記のイメージだと題名なんて付いていない印象である。ブログなどの普及から来た後付けの認識である。まあ、これまでの作法に則ってないからなんだって話ではあるけれど(あと、日記に題名をつけない文化というのはぼくの狭い範囲の常識なんではないかという疑いもかなりあるが)。ともあれ思ったのは、ブログって題名つけるところがよいよな~、ということなのであった。ブログの持つ好きな要素だ。もともとの日記にはタイトルという要素がなく、ブログの成立によってその要素が足されることになった、という状態ならば、よかったよかった、とは思う。

mixi

はるかむかしに書いたmixi日記を読む機会があったのだけど、そのときの日記の題名にも、まったく同じことをしていた(××を××する×曜日って書いていた)。なるほど~と思った。さすがに十年以上たっても同じことをしているのは、なんか、うーむ、そうすね、まあいいですけども、ってなった。とはいえ、前向きにとらえようとするなら、ここまで同じことやってるんであれば自己の特性と言えるなにかではあるのだろう。

かなりむかしの日記を読むたびに思うが、ほんとうに、なんというか、論理の隙間がおおきくて、そこだけが苦手だ……(黒歴史とか青臭いとか厨二病とかそういうのは比較的どうでもよい)。そこあっさり断言してるけど、なんでその根拠からそんな断言できちゃうわけ?(別の結論に流れるパターンだって想定できるじゃん、途中の分岐を完全に無視してるじゃん)、その認識を分析して出てきた結論がそれなの?(もっとほかの結論も並立してるじゃん、ひとつだけしか取り上げないのなんなの? 無視してるの?気づいてないの?)、って疑問がちょこちょこ出てきてしまう。

書かれている文章の脇の甘さが嫌、というよりは、あんなふうな文章を書いていたってことは、普段の認識もあんなに目が粗い感じだったってことなのか?という疑問に対して、嫌、と思っている気もするなあ。ここがむしろ嫌悪感や不快感の源泉かもしれない。そしてさらに、普段からあんな認識だったのであれば、ものすごく視野が狭く感覚が鈍く頭の回転が遅かったのではないか、しかし、当時はそういった自己認識を持てていなかったし、気づけていなかった、ということは、いまでも変わらずそうなのではないだろうか、という流れで、いまにつながる嫌さを感じている気もする。