仕事ができなくて怒る・怒られる、あるいは、褒める・褒められる、評価する・評価される、といったおこないの背景から読み取ることのできる「能力主義」が、やけに気になる日だった。昨日今日でこれに関連する話をふたつも聞いたためだろう。相乗効果で気になりっぷりがより増した。
「人間には能力がある」「能力には良し悪し、高い低いがある」「能力は測定できる」「成功する人間は能力が高く、失敗する人間は能力が低い、という連関がある」。こういった"能力"にまつわる常識はたしかにある。だがそれらが適切かはだいぶあやしい。嘘の余地がある。そして、そこにあるあやうさが検証されないままどんどん採用されてしまっているようにも思う。妥当性がないまま社会・文明・文化・時代・コミュニケーションの足場にさせられてしまっているというか。ぐらついたままの"能力"ありき事象が、いくらでも転がっている。
言うなれば、「能力」という概念には、もっとよい使い道があるんじゃないか?と思った形だ。現代における「能力」というものの扱いかたって下手くそなんじゃないかと感じた。いまぼくらが考えているような「能力」がすべてではない。もっとよい当てはめかたや伸ばしかたがありそうだ。その形状の多様さや有効さを活かせていないように思えた。
たまに自動販売機でジュースを買えるサルが報道されるけど人間の才能も似たようなもん。宇宙空間にひとりだけ浮かんでいても才能なんて意味が無くて、才能を発揮できる場所が社会にあってはじめて意味がある。
— かわんご (@gweoipfsd) 2023年9月12日
自動販売機よりは複雑だけど多くの才能とは世の中にあるボタンの押し方を知っているだけ。
才能って気づきにくいけど、大事な部分は本人にあるんじゃなくて社会に本体がある。社会のなにかの装置を上手に利用する能力が才能。ほとんどの場合はそう。
— かわんご (@gweoipfsd) 2023年9月12日
ジャニーズみたいな問題が起こる背景って、世の中にはある程度の才能があれば、別にだれがやってもかまわないお得な仕事があるということだ。
たとえばコンピューターゲームが図抜けてうまい(つまり"能力がある")ひとも、コンピューターゲームが開発される前の時代に生まれていたら、"能力がある"ことにはならなかっだろう。発揮されなかったというか、認識されなかっただろう。
という「人間が創造したもの」と「創造したものにかっちりとハマったことによって顕現させられた力」の"噛みあわせ"にフォーカスしていく切り口が、今回は新鮮だった。能力がある・ない、とか軽々しく言ってしまうが、そういうふうに"かっちりとハマる"環境があるかどうか(用意できるかどうか)が、能力のあるなしを決める、という考えかたのほうが適切に思えた。むしろこちらが能力の本質だと捉えてみるのはかなりよいと感じた。
環境を用意してからそこにハマるひとを探すのでもよいし、ひとを見つけてからそのひとにハマる環境を作るのでもよい。いずれにせよ、漠然と、「能力があるね」「能力がないね」なんでふうにのたまってるよりは適切だろう。ジグソーパズルの一ピースを見て、こいつに能力があるのかないのか?と問うていても意味ないよというのを連想した。