世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年01月05日(日)年始の終わり、2025には慣れない

連休終わりの暗い気分はあった

まっすぐ前向きに、自分の仕事に向き合っている人の話に出くわして、連休が終わることに対する暗い気分を、そこそこ払拭できた気はした。いい感じに感化された。誠実さや真摯さを嗅ぎとって、見習っておきたいなと素直に思えた。

ただ、考えているうちに、これって実際は、誠実さや真摯さに感化された、っていうよりは、「知や学問の力を信じて仕事に向き合っているスタンス(=知性と思考をフル回転させて仕事に向き合っているスタンス)」に感化されたんじゃないか、って気がしてきた。どちらかというとこっちのほうの比重が大きいっぽいぞと気づいた。

というか、人間の「知」や「学問」を信頼しきって、そこにしっかり背中を預けているような人の話を、誠実さや真摯さとして読解したがる癖が、いまのぼくにはありそう、と感じたのだった。別にそれが誠実や真摯というものの定義であってもよい気もしたけれど。

ぼくにとっての誠実さや真摯さは、「知」「学問」と繋がっている(個人的には、そこに、そういうものを見出したくて、繋げたがってしまっている)、としても、別にダメではないじゃん、とはなった。

仕事と考えるの混同

なんというか、たとえば、仕事をサボることより、考えることをサボることのほうを、実際は問題視している。けれどそれを、「仕事サボるのってあんまりよくないのかもしれないなー」とか言語変換していることが、たぶん多い。ぼくの印象だと、「仕事」と「考えること」の話は、いろいろなところでくっついているため、ほとんど区別せずに、話してしまっているんだと思う。そして、あんまり齟齬が発生していないために、自覚しないままになっている。区別しなくてよいでしょ、と思っているところさえたぶんある。

「仕事をサボらないようにしよう」が「考えることをサボらないようにしよう」に聞こえていたりするし、「ちゃんと仕事する」を通して「ちゃんと考える」を見ているところもあると思う。「頭をフル回転させて向き合うこと」と「真摯に仕事と向き合うこと」がニアリーイコールにもなっている。混線しているというか混同しているというか。まあ、なかば意図的に同一視しているところだってあるように思える。そのおかげで、自然体で仕事に情熱を注ぐことができたり、悩まずに考えることを推奨できたり、しているとも思うので、難点ばかりでもないとは思うのだけど。