世界は称賛に値する

日記を書きます

現実シャングリラの5/24水

水曜日

喉の違和感は残っていて咳もたまに出る。まわりで聞いてわかるくらいには声もかすれているようだ。しかし肉体的にも精神的にもツラさはほとんど消えた。ほどほどに平和と言ってよい。特に支障もなく仕事は終えられたと思う。今年度の個人目標立案にともなう「行動予定」の締め切りが迫っていたので、いくつか考えた。相談して今回の目標は抽象性高めで仕立てていただいた。それにともない行動予定の抽象度も増した。たぶんありがたい話なんだろう。達成率がやや増しているはずである。いやまあ、見逃している裏とかあったら嫌だなとも思いつつだけど。

週刊少年マガジン

週刊少年マガジンを読んだ。すこし前に『ブルーロック』のアニメ版を見て、ストーリーの序盤を知った結果、連載の『ブルーロック』も楽しく読めるようになったので、最近はいつも楽しみにしている。いまは「超越視界(メタ・ビジョン)」の使い手の話を下地に、その中での読み合いやら挑発やらを重ねているシチュエーションだ。『ブルーロック』は物理法則や人的能力を変に超えすぎないところで"異能"を見せる物語ではあるので、こういうふうに「誰がその同じ能力を使いうるのか」的な錯綜も絡んでくるんだな、とは思った。そして、話の流れはおもしろいのだけど、「超越視界(メタ・ビジョン)」がどうこう、という単語の使いかたで相手と話が"通じる"のは、じゃっかん意味わからんな、とも思った。もし現実だったら、たとえおのれが見つけだし会得した特殊な技法や認知に名前を付けたとしても、その名前を使って人と話せることなんて、そうそうないだろう。そもそも、それが、新たに発見されることさえ意味不明だとも思うし。

物語におけるこういった「現実だったらそうはならんやろ」感、いわゆる"リアリティ欠落感"、それを、どういうふうにあつかえばよいんだろうか、という疑問は昔からある。いつもちょっともてあます。「非現実的なもの」が存在する物語が許せない話ではなく(むしろ非現実的なものの"存在"は許せる話だ)、なんというか、「非現実的な"プロセス"」が許せない話と言ってよい。許せないというか、どういうふうに許せばよいかわからないというか。

むろん、「非現実的なプロセス」のように見えてそうでないケースもありうる。あるひとの特異な嗜好、そのときの突然の気分、運不運、勘違いや記憶違い、社会の風潮、圧力、テンション、言い出しっぺの責任、言い出せない恥ずかしさ、諸々の影響によって、思った以上にプロセスがねじ曲がっていき、結果、「非現実的なプロセス」として感得えるものが現出してしまう、ということだってもちろんあるはずだ。が、どこまで、そういった「ねじ曲がり」を斟酌してあげればよいんだろうか。どこまで「そういうパターンもあるかも」と思ってあげればよいんだろうか。どちらかといえば、事情を汲んであげたい派ではあって、だからこそ逆に、どれくらい汲めばよいのか知りたいと思う。