ぼやけた話と、凝縮した話
ただの一般論や社会通念を、さらに引き延ばしたような、薄っぺらくて、なんの目新しさもない話を、ダラダラ話していることもあれば、思考の軋む音がキリキリと響くくらい加熱させて、カンタンにはつかみきれないような構造体を、なんとか解析してみせるべく、足掻いていることもある。益体もない雑談と、懸命に導き出したひらめきが、日記というものの両端にあって、グラデーションになっている、みたいな認識は、けっこうあるかな。
そして、そのときの気分によって、どれくらいのものが書きたいのか変わる。えっちらおっちらそのあいだを行き来している印象である。酒とつまみを片手にワケもわからないような戯言を口走っているような、千鳥足な言葉もたまにはよい。使い慣れた言葉をただただ並べていただけで、なにが言いたかったんだか自分でもよくわからないぜ、みたいな薄いことばも、ときどきはどうしても吐き出したくなるし。
アガペーとかになるのか
慈しみや優しさの権化のようなとにかく包みこむような聖母的な所作と、ぜんぶがぜんぶフラットな事実に過ぎなくて上下からは逸脱しているような科学者的な所作、どちらに対しても、「愛」って言葉を当てはめていることが多いな、と気づいた。というか、互いに繋がっているのだと思っている気がする。どこかに愛がなければフラットには見れないし、どこかしらフラットな目線がなければ愛せない、みたいな感覚は、ちょっとある。