世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年01月07日(火)元気づけられる人の組み合わせ

四拍子

「誠実なふるまいが好きだ」って思っていたけど、実際は「知性や学問の力を信じているふるまいが好きだ」というところがポイントで、そういう所作を「誠実さ」として受け取る癖が出来てしまっていただけだった、混同してしまっていたのだ、みたいなことを、ちょっと前の日記に書いたのだけど、混同とか同一視とか解釈のねじれとかいうよりは、これ、単に、別建てなんじゃないの?って気もしてきた。「誠実なふるまい」と「知性や学問の力を信じているふるまい」が並び立って両立しているのが好きなのではなかろうか。

こういう、認識に関する、順番や配置や接続方法についての勘違い、けっこうありそうだし、気づきにくそう、とも思った。配置Aだと思っていたけど配置Bだった、と、もし気づけたとして(そしてそれが妥当だったとして)、とはいえ、気分によって配置Bのときもあれば配置Aのときもあるだけ、ってことさえありそうだし。

あらためて見つめるなら、「愛が(丁寧さと誠実さが)ある」「人類の知性や学問の力を信じている」「希望がある」「実際に活動している」というような、四拍子そろった文章や生き様が好き、ってだけかもしれない、とは思った。

それらの矢印を兼ね備えたおこないをしている人を見かけると、元気づけられるし、勇気づけられる。自分もがんばろう、ってなる。というか、それくらいの、愛と勇気と希望を、「普通」みたいに思って生きていってもいいんだ、って感じさせてもらえて、嬉しくなる。「当たり前」の目線の違いをまっすぐ突きつけられて、基準とか水準が書き換えられてしまうの、ときに、ありがたいな、って思っている。