世界は称賛に値する

日記を書きます

7/28(金) 喝采の刺激を意識する

平日最終日

平日の終わりだ。週末を迎える。「一日」「一週間」「一ヶ月」「一年」「週末」「年末年始」といった人類的な区切りに支配されない認知様式を会得したいと考えていたこともあったのだけど(可能なら試してみたいとは今も思うのだけど)、概念として使いやすすぎて、流石に逃れられなかった。すっかり毒されている。あるいは、しっかり活かしてしまっている。アフォーダンス的な観点から言うなら「アフォードされてしまった」とも言えそうかな。世界(地球)って一日とか一年で区切りたくなるような形状をしているからな~、なんて言いたくなる。いずれにせよ、頼りになる線引きだとは感じるようになった(馴らされた)。

時間をもらって業務における今後のアクションを相談した。意図と効果とリスクを取りまとめて資料を提示した。問題はなかったようだ。新たな指針はいくつかあたえられて、狙いや動きが変質したりもしたけれど、おおむね好印象っぽい流れではあった。資料に対する不備の指摘も特になかった。これまでは叱責や皮肉を喰らうことも多かったので、そこは減ってくれてよかったなと思う。慣れてきたんだろう。というか、少しは相手の嗜好に合わせられるようになってきたんだろう。現環境に対する不信もいくらかはあるため、いまの環境に適合するようチューニングしてしまってよいのだろうか(下手に適応できてしまうと逆にあやういんじゃないだろうか)とも思わなくはない。が、同時に、そこまで独特かつ悪質な文化圏でもないんじゃないか、とはいちおう思っている。習得したすべてが無駄になるほどかけ離れた環境ではたぶんない。

褒められる

ここ数日のあいだに起きた仕事上の難題と混乱に対して、けっこう頑張ってそれなりに対処したんじゃないか、とは感じている。なかなか頑張ったんじゃないのと自覚している。そのせいなのか、すごい勢いでしっかり褒められる夢を見てしまった。うーん、もしかしてこんなに褒められたかったのかな、と考え直させられる強烈なシーンだった。

いまの職場はほんとうに褒める文化がない。ぜんぜんそういった光景を見かけない。そこがたぶん最も嫌いだ。教育の効果の観点からしてそもそもよい文化ではないんじゃないの、とも思う。「失敗ばかりが取り上げられ、批難ばかりが行き交う空間」って、結局、教えられる側は、目標にちゃんと誘導されないまま、つまり適切なやりかたの指針が曖昧なまま、動く羽目になる。結果として余計な時間がかかり、物怖じもしがちになる。モタつくし、ビクつく。そういった状態が基礎になっている環境って当然ながら人が育ちにくくなるんじゃないすかね~、なんて澄ました顔で考えたりもしていたわけだけど、それはそれとして、素朴に、「褒め言葉が欲しいよ~」と思っているらしい精神もまた、今回、認識した。こんくらいで やったんだからちょっとくらいは褒めてくんないんかーい、って考えていた。