世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年04月20日(土)充実した成果と充実しているかは別問題

書かないほうがよいくらい

趣味的な文章を読ませてもらって「おもしろい」「つまらない」と思ったりもする。好きな日記もあれば、嫌いとまではいかなくても、好みじゃない、面白味を読み取れない、日記もある。判定してしまうところはある。ただ、日記や文章が"つまらなかった"からといって(趣味で書かれたものなら特に)、その向こう側にひろがる「実際の景色」が、くすんでいるとは限らない。日記の上手い下手が、日常の潤いを、必ずしも、あらわしているわけじゃない。しゃべりの上手い下手が「賢さ」の指標であるかのように勘違いする瞬間がときどきあるのだけど、それと同型の認知バイアスだ。日記の巧みさに「景色の鮮やかさ」を見て取ってしまいそうになる。

じっくり書く暇などなく、そのせいで、表現が稚拙、単語の選びかたが雑、文章量も少ない、というくらいの日記のほうが、その向こうに拡がる世界の「よさ」でいえば、上位に位置づけられる可能性は十二分にある。"ろくなことが書けていない"くらいのほうがよい場合はありうる。誰が判定するのかは知らないが。ともあれ、軽率に「おもしろい」「つまらない」と断ずるのも、よくはなさそうだ、とは思った。

やっつけ

時間に余裕がない中、やっつけ仕事的に、ちょっとした思いつきを、軽率に書き記す。飛躍や破綻もなんのその、書けることだけ、さらさらと記述する。それくらいの、端的なメモ書きによる「日記」って、たぶん、つまらない。つまらないものになっちゃうんじゃないか、と思って、まず忌避する気持ちになって、そのあと、いやでも別にそれでいいはずじゃん、と思い直した。「片手間の日記」をむやみやたらに怖れるところがあったので、それを怖れるのってむしろ違うんじゃないか、と、思いこみを捨てようとした。乱暴でも稚拙でも大過はない。少なくとも大袈裟に怖れるほどのことではない。片手間でよいケースだってあるし、片手間だからこそよいケースもありうる。質と量が担保されていれば問題ない、とだけ、短絡的に考えているほうが、よほどあやういだろう。