世界は称賛に値する

日記を書きます

20230803 軽侮の話

貶されたくない

なんだかんだ褒められたいんだなと思った。嫌いな相手にさえ媚びへつらうようにして評価されようとしている瞬間がやはりある。褒めことばをもらうための演技じみた振る舞いがまろび出たりする。いやいや流石に”媚びへつらう”は悪印象すぎる言い回しだろ、とはちょっと思った。偏向報道だ。過度に否定的、過剰に攻撃的である。別に「嫌いな相手にも合わせる」でも「嫌いな相手にも寄り添う」でもよいはずじゃん。ともあれ、褒められたさは一歳に満たない赤ちゃんの中にもだいぶ見受けられる(最近身近で見ているのでそれを感じる)。子どもだとむしろ極めて素朴に賞賛というものを目指している印象すらある。ここまで根源的なところにあったものなんだから、おとなになったくらいで消えるもんでもないか、って気はした。

ちなみに、褒められたいって気持ちの裏側に「けなされたくない」「見下されたくない」「嫌われたくない」といった対義語的な位置づけの精神があると単純に見做してしまってよいのかな、とも思った。「熱い食べ物が好き」は「冷たい食べ物が嫌い」を意味しないじゃんというツッコミである。褒められたいからってけなされたくないとは限らないし、けなされたくないからって褒められたいとは限らない。とした場合、現状抱えている気持ちは実際はどちらなんだろうか。

あしたの仕事が嫌だ~と溜め息つくような機会が増えた。増えてしまったなあと感じる。(諸悪の)根源が「褒められたい」または「見くびられたくない」あたりの気持ちにありそうだったので、あらためて観察した。なんかまあビクついているよな~。しょーもないといえばしょーもないとは言える。褒められたからってなんなの?見くびられたからってなんなの?とは言えるだろう。そんなふうに冷静に思えることもある。うまく距離を取り、落ち着いて、丁寧に見ることのできる瞬間が、ときどきはやってくる。達観できる・諦観できる、という言いかたも思いついたけれど、あんまり望ましくない印象はあるかな。悟ったり諦めたりしないと「距離を取って落ち着いて丁寧に見る」ことってできないからね~、って言われている気がしてしまうからだ。。普段とは異なる世界観を呼び起こすことによりその行為が可能になるのだ、ってルールは、あんまり構築させたくない。ルートが固定化・硬直化してしまい振る舞いの自由度が下がる気がするからだ。悟りや諦めをきちんともてなさないと恩恵がもらえませんよと言われている気がして嫌だ、という言い回しも思いついた。なんか説明が難しいな。そしてなんか話がズレてきたな。