世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年04月21日(日)公平に判断できないならなにも軽んじない

自己をフラットに見るのは難しい

鏡で見た自分の顔は何割か増しに見えているとかいないとかいう。慢心するタイプなのか卑屈なタイプなのかで、傾く方向が正反対に変わりそうな気もするけれど、いずれにしても、自己に対してフラットな目線を保つのは難しいんだろう。技術や能力にかかわる似たところの話だと、自分より少し下に見えているくらいのひとが、実際は「自分と同レベル」なのであって、もし「自分と同レベル」に見えているひとがいたら、そのひとは、実際は、一段高いレベルにいるのだ、なんて言われたりもする。見下している相手こそが自分のいる地点で、同じくらいだと思っている相手にはきっと敵わない、と、そう聞くと、なかなか怖いなとも思う。

基本、応援してればよいのでは

つまらないと軽々しく切り捨てている文章や作品がときどきある。が、そんなことを言う権利というか、そんなふうに言えるだけの確かな判断力があるのか、って思った。なんだかんだ自分だって同じようなことをしてるんじゃないのかな、と、怖れながら、事態を見つめ直したくもなった。自分のレベルがフラットに判定できないなら、「下」だと判断して切り捨てているおこないが、妥当な気もしない。

同等のレベルにせよ、多少の上下はあるにせよ、互いに「できていない」レベルなら、素直にただ応援しあってればよいのに、とも思わなくはない。前向きに声をかけあいながら、軋轢なく進んでいったって、別によいはずだ。にもかかわらず、素直に応援できていない、ということがすでに、なにかしら劣等感を刺激されているというか、無意識的に自分の欠点を見出してしまい警戒しているというか、近親憎悪的なんじゃないか、って気はする。過敏になっていること事態がちょっとあやしいぞって思った。