世界は称賛に値する

日記を書きます

端折る懐疑論3/22水

書きかた

毎日書いていてもすらすら書けるときといまいち書けないことがある。そこの違いはよくわからない。気分といえば気分だ。書けないなんて気のせいなんじゃないか、ただ手を動かせばよいだけじゃないか、というような気持ちを思いながら、それでも書けないこともあるし、思ったよりすらすらと言葉が進んでいって、あれ?こんなに簡単に書けるじゃん、なんで書けないとか思っていることがあるんだろう、と、書ける書けないということの境界線がわからなくなったりもする。

書き上げた文章の出来の差もよくわからないしな~。説明不足というか論理飛躍というか、なんかこう、"隙間が見えて気になる"ことが多いかなあ、とは思った。具体例が足りないな、整理がついてなくて意味の構造や通り道がわかりづらいな、説明を足そう、といった具合だ。あとから読み返して修正するのはそのあたりが多い気がする。そもそも最初っから疑問や気持ちを捉え損ねてる、ほんとうはそういう問題じゃないじゃん、ほんとうはそんなふうに思ってないじゃん、って、のちのちになってわかってくる場合もあるけれど。

あと、なにを書きたかったかというか、"落ち"を忘れるパターンもあるな~。そういう状況、そういう意味合いに対して、こう反論したい、こう切り返したい、ということを思って書き始めたにもかかわらず、状況とか意味を醸成していく流れの中で、なんというか、その前提部分にフォーカスがへばりついてしまい、最終的な落としどころ、なにを言おうと思っていたか、ということを忘れてしまうことはある。ひととおりの説明を終えたところで、ここからなにかを言いたかったんじゃなかったっけ、ってなったりする。

これっていいよね、ここは自戒したい、といった、最初にいだいていた「良し悪し」の感覚すら見失うことがあったりもするし……。良い話として書き始めたのかダメな話として書き始めたのかすら忘れることがある。

落ちを忘れるという意味でいえば、とはいえこういう隙間を通せばこう言えるんじゃないの、みたいな異論が、最も見失いがちなところかも、とも思った。隙間の通しかた、なんとか見えた光、が、書き始めた動機ですらあったくせに、それが複雑精緻で、認識しづらかっために、時間をおいたらすっかり頭の中から消えてしまった、ということはわりとありがちかなあ。気のせいだっただけの可能性も当然あるけど。

グループ

はてながグループ機能を推し始めた雰囲気を感じたので、活かせるのかなと思ってバナーを貼ってみた。定着するかは不明だけど。そもそもはてなブログ関連のシステム、しっかり活かせてない気はかなりするけど。