世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年03月05日(火)疑問を呈したいらしい火曜日

疑問の深掘りで混乱する

疑問を思いついて、それについて考える、という振る舞いをしているときの頭の働きを眺めながら、「因果」「連想」「類似」「近所」、といった単語を思い浮かべた。思索を進めていくとき――深めていくときには、因果をたどり、連想に目を向け、類似を探し、近所にも目配せする。そんなふうに関連事項を巻きこみながら整理整頓したりしている。いろんな要素が重ね合わせられながら絡みあっていく。

こういった「巻きこみ」はよくしていると思うのだけど、目に入ってくる「関連事項」が、ほんとうに「問い」と関係しているものかは、正直わからない。わからないことのほうが多い。余計なもの余分なものまで混ぜこんでしまっている可能性はきっとある。無関係とまではいかなくても、レイヤーが違う、ステージが違う、観点や視座、目的が違う、といった"ズレた"要素を、混ぜてしまっていることは、少なからずあるに違いない。話にいまいち合致しない素材まで混ぜてしまったなと感じることも多い。

結果として、うまく調理できなくなっているシーンがあったりするんだろうな~、と思った。無駄に混乱させられているというか、混乱させられていることに気づくこともできぬまま、なんとか整理しようと試みて、壁にぶつかってしまい頭をごんごんぶつけている状態になっていそうである。実際そうなっているなと思える場面もあった。さらには、単語や概念の見せる「曖昧さ」が、その混乱に拍車をかけてくる。豊かな解釈を許すことばの懐の深さが災いして、逆に意味わかんなくなる瞬間がある。

断言のほうが混乱しない

疑問文を書くときのほうが混乱はしちゃっているかな。前述したような「余計」なものが混ざってきてしまうんだと思う。比較すれば、断言する言葉を書いているときのほうが混乱していない。断言する言葉は、たぶん、半ば諦め混じりだからだ。おちゃらけやおふざけの気配すらある。割り切って「言えるところまでのことをただ言っている」ためだ。だから混乱していない空気になるんだろう。とはいえ、疑問文を提示するのは、それはそれで楽しい。やっぱり疑問は呈したいなと思う。別に望んで混乱したいわけではないのだけど、とはいえ疑義を差しはさんでみせるのは楽しい、メスで切開したい。