世界は称賛に値する

日記を書きます

正を融きたがる12月15日木曜日

と思った

笑顔はよい、と、笑顔がよいと思った、では、文章としての性能が思いのほか変わる(あと、笑顔がよいと思う、笑顔がよいかと思う、でも変わる)。←この前文にも「と思った」を付ける付けないで印象が変わるよなと思った。「と思った」を付けると、なんというか、個人の思考の描写になる。結果、一歩離れて距離を取る感じにもなる。個人的、思考的、描写的、観察者的、というような要素が「と思った」付ける付けないに関連すると思っているのだった。

断言型のほうが

これまでに見聞きした文章指南の中だと、「と思った」を削る「断言型」のほうが、やや推賞されがちな印象であった。断言してしまったほうがインパクトがあって効果的だ、わざわざ「思った」ことを主張しなくても当たり前だから書かなくてよい、個人的なものであることも同様なのでわざわざ書くなんて文字数の無駄、ときに責任逃れのための言葉になっていってしまいがち、等々の理由があったかなと思う。かつての自分は、断言すると”偽”になることが多いのであんまり断言使いたくないんだよなー、と思っていた。最近はそうでもなくなった。「それが”絶対的な世界の真実でない”ことは、たしかに前提なので、「と思った」とかわざわざ付けなくてもだいじょうぶ」側に、ちょっとだけ与したのだった。言葉が持つ性質の前提部分については読み手側が補完してくれるもんだよね、といった責任の押しつけスタンスに乗っかったしだいである(ここでの「責任の押しつけ」は、露悪的に言ってみただけで、まあ誰にも責任ないよね~、くらいが実際のところではある)。まあでも、補完してくれない状態だって当然あり、どこに書くか誰に書くかどう読まれるか、に依存するわけで、そこにガードレールを作っておくことに問題があるのか、という問いは忘れずにいたほうがよいとも思っている。検討中だ。

と思ったを削る

最近になって、「と思った」とかいったん削ってみるか~、と考えることが増えた。考えるようになった理由のひとつとしては、脳にすっと入り込んでくるときの滑らかさの違いがやはりありそう、と感じたことがあった。ひとの思考を、単純にまるごと渡されるのと、「描写」という体裁をとって渡されるのでは、なんとなく認知が違いそう、と感じる瞬間があったのだった。「と思った」が付いてるか付いてないかだけなんだけど(料理がこぼれないよう小皿の上に乗せて渡されるかどうかくらいの違いだと思うのだけど)、「と思った」が付いているだけで、ぼくの認識機構が「これって描写型の文言だ」と判定して、身構える、みたいな感覚があった。まるごと渡されたら口にそのまま放り込める、みたいな勢いの違いを感じた。