世界は称賛に値する

日記を書きます

退屈のシリコン2/14火

つまらないとき

例えば読書をしているときに、なんかつまんなくてこれ以上読めないな~、ってなったことが何回かはある。が、ここがつまらない、って指摘できる場合と、どこがつまらないのかはわからない、と、うまく指摘できない場合があった。自分でもうまくつかめないことがあった。文章を読みながら、なんとなく(読書や本に対してではなく)目の前の文章に対して、無駄、無意味、無目的、無価値、あたりをどうしても感じてしまう……、というような状態が、いまいち指摘できないときに起こっていたパターンのひとつとは言えるかなー。こういう「無」を覚えたときのつまらなさってかなり混乱する。例えば小説の描写の一文一文に、読む価値?と言えるようなものを、見て取っているようなところがあるのだろう。それが損なわれて「無」になる瞬間があるのだと思う。というふうに考えてみたけど、うーん、どうなんだろう、ほんとうにそんな”読む価値"を見て取ってるのかな~? 厳密には不明だ。

まあともかく、読書中、だめだーつまらーん、ってなったときに、なんでこんな読む価値のなさそうな一文一文を追っているんだろうか?という疑問が湧いてしまうことはあるのであった。逆に、おもしろいな~と思えている読書のときには、こいつはほんとうに一文一文が洗練されているというか、どの文章にも意味や価値、美、おもしろさを感じるぜ~、って思わされていたりもする。

文章に対する「無駄」ってなんなんだろうなとは思う。シンプルに言うなら「なくてもよい文」ではある。説明するときや教示するときに、、「どれくらい細かく丁寧に説明するか」「ひとつひとつに気配りするか」っていう問題がどうしても出てくると思うのだけど、それに類するといえば類する話なんじゃないかなとは思った。いくらしっかりしようとしていてても、肌理細やかな範囲が自分の知識や流儀に合っていないと(知っている話やわかりきっていることばかりが出てきて)飽きてしまう、みたいなパターンは当然あると思うし。

あなたにとっての常識

読書中つまらないと思ってしまう文のことを考えていて、ぱっと思いついたのだけど、「AといえばBだ」とか断言している”小説の地の文”(特に三人称のやつ。一人称だと台詞と同等に思えたりするので)を読んだときに、いやいやそれ単なる作者の感想じゃん(あなたにとっての常識ってだけであって、さも当たり前みたいに書かれてもな~)、みたいに思わされることがたまにある。ほんのりとドン引きさせられることがある。登場人物の台詞として出てきているなら多少はマシというか、別のレイヤーで受け止められるのだけど(なので一人称だとこのくくりで捉えられる)、”小説の地の文”は、その世界を構築していくための言葉として捉えられてしまうせいか、やっぱりちょっと別格になる。こういったダメージを喰らったときに、読めない~、世界観に入りこめない~、ってなっていることは、まあ多いかも。むろん「わかってやってそう」なら別ではあるのだけれど。ただ、馴染みのない作家なんかだとそういう信頼感もないし。

ちなみに、この問題は、まんがやアニメだと発生しないため、コミカライズだと読める、アニメ版だと観ることができる、といった事態が起きているときは、このあたりの要素が関係していそうである。